第1話『純粋すぎた少女 ~ Innocent Angel I』

Scene-1. 1990年7月19日 木曜日 都内大学研究施設

 「滝川俊(たきがわしゅん)博士ですね?」
真剣な面持ちで試験管を睨み付けていた男は、研究室に現れた男の言葉に視線を上げた。よれよれの白衣を身に纏う男は訝しげに戸口に立っている男を見る。戸口の男はこの夏の日差しが差し込む最中、黒い背広を着込んでサングラスを掛けていると言うキチガイじみた出で立ちである。
「誰だね、君は?」
男は試験管を試験管立てに丁寧に立てると、防菌のためらしい手袋を外した。背広の男は内ポケットから名刺を一枚差し出す。
「こういう紙で名を名乗るのは日本人の文化ですか?」
そう皮肉げに言ってのける。男は名刺を受け取るとその文面に目を通した。
「ABL………アメリカ・バイオニック・ラボラトリー社………? 聞いたことも無いな」
「当然でしょう。我が社はつい2年前に設立された新しい物です。しかし巨大な資金力を背景にバージニア州の本社、オハイオ州、ネバダ州、ニューメキシコ州、フロリダ州等に支社と研究所を構え、そのネットワークは既に全米に広がっています」
背広の男は流麗な日本語で答えた。白衣の男は眉を潜めながら問う。
「その、新進気鋭の新企業のスカウトマンが私に何のようだね?」
「貴方の頭脳を、お借りしたい」
背広の男はそう言ってニヤリと笑うと続けた。
「我々は主に新薬の開発を行っていますが、最終目的は人類という種を、次代の過酷な環境にも適応出来得る次成る段階へと導くことにあります。貴方の研究目的、『次代の環境に対応出来得る新人類を生み出すための母胎となる生物』と一致すると考えますが?」
白衣の男は黙って聞いている。
「貴方の研究は大学側から理解されずに、予算の都合が付かないようですね。我々ABLは貴方に最適な研究施設と部下を提供する用意があります。一度我が社の研究施設を見学していただけませんか? きっと御満足して頂けることと自負しております」
「そう言うことは大学側を通して話すことではないかね?」
白衣の男の台詞に背広の男はすこし肩をすぼめて言った。
「大学側に最初に問い合わせましたが、丁重に断られましてね。直接貴方にお話を持ってきている次第です」
背広の男はそう言って、鞄からA4サイズの封筒を取り出した。
「詳しくはこちらをご覧下さい。我が社の全てが記載されています。私はまだ他の方のスカウトも残っていますので、今日はここで退散します。近い内にまたお伺いしますので、その時は良い返事を期待しておりますよ」
背広の男は一方的に喋り続けると、白衣の男の返答も待たずに研究室を出ていってしまった。
 白衣の男は封筒を一瞥してから再び試験管を手に取ろうと手袋に手を伸ばし掛け、そのまましばらく動きを止めていた。そして思い立って封筒に手を伸ばしていた。

Scene-2. 1990年8月29日 水曜日 オハイオ州上空

 ABL社のチャーター機らしいその旅客機には極小数の男達しか乗っていなかった。その殆どが日本人で、それぞれに何か期待と不安の入り交じった表情を一様に浮かべている。
「貴方が、滝川俊博士ですね?」
窓際に座る男に、日系人らしい男が語りかけた。
「そうだが、君は………?」
滝川博士と呼ばれた男は視線を上げて男を見ると、ふと考え込んだ。
「君は、何処かで見たな」
「一度大学の研究室を見学させて貰いました。他の教授陣と一緒でしたから印象には薄かったのでしょうね」
日系人らしい男はそう前置きしてから続けた。
「改めて、私は大場泰治(おおばたいじ)と言う者です。脳神経波の研究を主にやっています」
大場泰治と名乗った男はそう言って笑った。
「大場、博士なのかな? 君も、ABLにスカウトされたクチかい?」
滝川博士の問いに大場は頷いた。
「一度見学に言った研究所の設備は素晴らしかったですからね。我々のような先進的な研究は日本ではスポンサーが付きづらいですから、殆ど飛びつきましたよ」
「似たような者だね」
滝川博士は大場博士の答えに満足したのか、そう答えて窓の外を見た。一面に広がる雲海が視線の何処までも続き、地上は見渡せなかった。

Scene-3. 1993年12月20日 月曜日 ABL社研究室

 「成功したのか………?」
白衣姿の大場博士は、滝川博士の肩越しに目の前の円筒形の水槽を見つめた。水槽の中には透明な液体が充填され、時折酸素を送っているらしい気泡が浮かんでいる。その中央には人間の胎児らしき物が浮かんでいた。
「………受精卵の遺伝子への調整因子の組み込みは正常に行われたようだ。拒絶反応もない。今は高速細胞増殖チェンバーで強制的に成長させているが、正常な細胞増殖による成長も確認されている。BC-H203は初の成功例と言えるだろう………」
滝川博士はわき上がる喜びを無理に押し殺しているのか、震える声で言った。
「愛しいだろう?」
大場博士は安心したのか、滝川博士の肩を叩きながら言う。
「ああ、今直ぐに抱きしめてやりたい程にな。私の最初の娘だからな」
「性別は女か」
「ああ。男性体での成功例は未だ無い。BC-H1系列で50パターンほど実験をしたが、調整因子との相性か、X染色体とY染色体が共食いを起こしてしまう。その問題はこのBC-H2系列にも持ち越されたよ」
「難しいところだな」
「ああ。だが………」
滝川博士は胎児の姿を凝視して呟くように続けた。
「この、“シェネラ”の成功例があればいつかは完成する。この子は、シェネラは私にそれを確信させてくれたよ」
滝川博士の視線は、親が子供を愛するそれと何等変わりはなかった。

Scene-4. 1995年3月12日 日曜日 ABL社研究室

 滝川博士は一人の少女の手を引いて、培養漕の中を指さした。10歳を越えてそう時を置いてはいないであろう年頃の少女は言われるままに培養漕の中に視線を飛ばす。そこには人間の胎児が浮かんでいた。
「見えるかい? あれがお前の妹だよ」
その言葉を聞いた途端、少女の瞳が輝いた。ショートカットの赤毛を元気に揺らしながら培養漕に駆け寄る。
「妹!? 私の妹なのお父さん?」
「ああ、そうだよシェネラ。この子はお前の妹“スイシーゼ”だ」
「スイシーゼって名前なんだ」
シェネラは培養漕の中を凝視したまま満面の笑みを浮かべる。
「はやく大きく成らないかなぁ。一緒に遊べるかな?」
「あと半年くらい待ちなさい。そうすればシェネラと同じくらいになるから。そうしたら一緒に遊ぶといい」
「うん。大場おじさんに言ってくる!」
シェネラは大きく頷いてから実験室の外へと駆け出す。
「おいおい、大場博士にはもう言ってあるぞ」
「いいの! シェネラが言うの!!」
シェネラはそう言って実験室を駆け出していってしまった。滝川博士はそれを見送ってから、再び培養漕に視線を移した。
「BC-H204、いや、スイシーゼ。私の二人目の娘か………」
滝川博士は呟き、愛しそうに胎児に視線を注ぎ続けた。

Scene-5. 1999年5月14日 金曜日 神奈川工業大学B5号館2204教室

 午後の授業は退屈その物だった。大学の教室としては恐らく小さい方の部類に入るであろう、この2204教室は午後の気怠い日差しの中で心地よい睡魔に支配されていた。
「材料の試験方法には数種類あって、代表的な物には引張試験、硬さ試験、衝撃試験などがあり、他には疲労試験、クリープ試験がある。資料集の25ページに簡単な解説が載っていますが………」
 教授だけが睡魔を無視して講義を続けるが、真剣に聞き、ノートを取っている者は最前列ぐらいなもの。中央から後方列に掛けては漫画や車の雑誌などを読みふけっている。
 その授業の最中、その青年はやはり睡魔と格闘していた。中央やや前方の席に陣取っている彼の隣では、学籍番号の近さもあって親しくしている友人が軽やかに寝息を立てている。
 青年は退屈な授業が醸し出す心地よい睡魔をペン回しで頻りに霧散させながら窓の外に視線を飛ばす。呑気なほどの青空は何処までも続いていた。
 その空の向こうから、少しずつ何かが飛んでくる。次第にハッキリしてくる輪郭は、Wローター式のヘリだった。そんなに低高度を飛んでいるわけでも無かろうが、そのローター音は鼓膜を強く振るわせた。
「………また“大和基地”か………」
青年は隣の友人にも聞こえないような小声で呟く。
 神奈川工業大学は厚木市にある。その関係上“大和市にある厚木基地”を飛び立ったであろう米軍機が、時には市街地高度600メートル以下飛行禁止を破ってたびたび騒音公害をまき散らしていく。
「………今日は演習はしないで、このビデオを見てもらいます。窓際の人すいませんが、カーテンを引いて下さい」
突然掛けられた教授の言葉に窓際の人………つまり青年は面倒くさそうに立ち上がり、暗幕になっているカーテンを引いた。

Scene-6. 神奈川工業大学正門

 午後の講義が終わった生徒たちが次々と校門を出ていく。校門を出て20メートルほど歩くと、最寄り駅へと通じる路線バスのバス停がある。そのバス停、神奈川工業大学前には既に2、30人ほどの生徒と教授、講師が並んでいた。
「ったく、また遅れてんだぜ」
友人は並びつつ、左腕の時計を見た。時計の表示は4時25分をさしていたが、バスが来る時間は4時16分だった。
「俺も衿岡(えりおか)みたいにこっちに住みたいぜ」
そう言って、バスが来るまで付き合って待っている青年へと視線を移した。衿岡と呼ばれた青年は小さく笑ってから言う。
「一人暮らしも楽じゃないぜ。まぁ、9時まで寝ていられるのは助かるけどな」
「そうそれだ!」
その友人は憤りさえ込めて叫んだ。
「電車で1時間以上揺られた上に、バスで20分なんて僻地だぞここは!? しかも!!」
友人はオーバーアクション気味に左手の人差し指を道の彼方へと向けた。
「諸悪の根元“荻野新宿(おぎのしんしゅく)”の交差点が混めば50分掛かる時だってある!!」
「んなこと言ったって、もう1年以上通ってんだから慣れただろうが。大体金がないとか言って教習所渋ってたお前が悪い」
「それを言うなって………。片道2時間見なきゃいけないような通学時間じゃバイト探しだって難航すんだからよ………」
友人は溜息混じりに言う。その時、衿岡は遠目に、駅方向の道からバスが一台来るのを確認した。
「おい、学バスが来たみたいだぜ。乗り換えるか?」
「もちだぜ」
友人はそう言ってバス待ちの列から離れた。学バスの止まる停留所は学内にある。
「じゃあな! また来週!!」
「ああ!」
衿岡は友人を見送ると、自分は道を渡る横断歩道に立った。
 つい数年前までこの横断歩道には歩行者用信号機が付いていなかったと聞いている。大学の正門前の通り、県道63号線は相模原への抜け道の扱いを受けている関係上その交通量はハンパではなく、しかも信号機が極端に───ざっと見渡して少なくとも7、800メートルは行かないと存在しないほどに───少ないため渡るだけでも一苦労だったらしい。
 そう考えていると、目の前を“本厚木駅行き”のバスが、学内へと入ろうとして右ウインカーを出している学バスに道を譲っているのが見えた。思わず笑ってしまう。振り返ると、学バスの列の最後尾に並ぼうとしていた友人が憤慨しているのが見えた。
 まぁ、いつもこんな物だ、日常の夕方などと言う物は。
 信号が青になった。殆ど大学の生徒の為だけに出来たと言っても過言ではない信号機に止められた車のドライバーが恨めしげに見る前を、衿岡は誰はばかることなく渡っていく。
 大学の正門の向かいにあるスリーエフ、もしくはローソンの裏手へ回り、サンローザ厚木と称されるアパート群───これまた殆ど大学の生徒専用なのだが───の一室が彼の現在の自宅である。
「さてと、今週も終わったし………」
衿岡は軽い鞄と重い製図用具を手に持ったまま軽く延びをして呟いた。教職課程科目を取っていない限り土曜日は講義はない。
「久しぶりに走りに行くかな」
そう続けて、自宅への帰途を歩くのだった。

Scene-7. 箱根上空

 ローターの音が鼓膜を振るわせていた。Wローターの若干ずれた動作音が規則的に大気を叩いているのだろう。箱根上空を飛ぶ米軍機の中で、その男は回りを警戒しながら格納スペースへと入っていった。
 壁に寄り掛かるように設置されている二つのカプセルの一つに取り付き、備え付けられているキーボードに何かを打ち込む。途端、小さな振動音が暫く続き、空気圧式らしいアクチュエーターがカプセルの扉を少しずつ開いていく。カプセルの中に入っていたのは赤毛のショートカットの少女だった。16、7歳位の少女は宇宙服ともライダースーツとも取れない、体にフィットした服に身を包んでいる。
 少女は時を置かずに目を覚ました。その少女に男は語りかける。
「シェネラ………。私が分かるか………?」
「うん。分かるよ、お父さん」
滝川博士はホッとして、カプセルから出ようとしているシェネラの手を取った。
「今、どの辺りを飛んでるの?」
「箱根の上空だ」
「お父さんが生まれた国だね」
「ああ。お前達に日本語を教えておいてよかった。こういう事態になるとは予想していなかったが………」
シェネラは語りだした滝川博士の口を塞ぐようにして言った。
「時間がないんでしょ? 早くスイシーゼの“記憶処理”を解いてカプセルから出してあげないと」
「ああ。そうだな」
滝川博士は言われるままに、もう一つのカプセルのキーボードに向き直った。そこに手を走らせようとする、その時………

 「何をやっているのかね、ドクター・タキガワ」
慌てて振り返る。振り返った先、格納庫の入口に人影と兵士が数人立っている。
「ベネウィッツ!? このヘリに乗っていたのか!?」
「これは御挨拶だね、ドクター・タキガワ。君の研究のためにわざわざ施設を用意した恩を仇で返すのかい? 日本はそういう文化だったかね?」
ベネウィッツと呼ばれた、軍服にサングラスを掛けた金髪の白人男性は皮肉を込めて言う。
「よくもぬけぬけと………」
ベネウィッツは、滝川博士の言葉の意味がよく理解出来なかったようだが、それが賛美の言葉でないことぐらいは予想が付いたらしい。視線を鋭くすると言い放つ。
「逃亡罪は死刑、これが我々のやり方だ。分かっているね?」
「………くっ………」
滝川博士はシェネラを後ろに庇い、一歩下がった。眉間に脂汗が滲む。
「まぁ、君の研究も90パーセントは完成。男性体の成功率が0なのは残念だが、もう君の必要性は無いと考えて間違いはないだろう。だが、君は我々の計画を知ってしまった様だからね、機密漏洩は防がねばなるまい」
そう言ってベネウィッツは軽く右手を挙げた。途端、兵士達が拳銃を構える。
 だが、次の瞬間、滝川博士の背後で強く床を蹴る音が響いた。滝川博士の頭上を軽々と飛び越えたそれは、着地ざまに兵士の一人の拳銃を蹴り飛ばした。宙を舞った拳銃が乾いた音を立てて床を転がる。
「お父さん!! スイシーゼを連れて逃げて!!」
兵士達の中に自ら飛び込んだシェネラは兵士の手をかいくぐりながら叫んだ。
「し、しかし………、シェネラ!!」
滝川博士は呆然とその様を見つめて叫ぶ。
「早く!!」
叫んだ途端、シェネラの頬を兵士の拳銃のグリップが強打した。一瞬意識が飛び掛かる。
「………この………!!」
シェネラはその兵士の腹部に恐ろしいほどの速度で蹴りを叩き込んだ。兵士はむせかえる暇もなく、乱闘の輪の中から飛び出して壁に叩き付けられる。シェネラはその乱闘の中で視線を未だ動けないでいる滝川博士に向けた。
「何してるの、早く!!」
シェネラは叫びざま、兵士の中から飛び出して滝川博士の直ぐ側にあった外部への扉を蹴りつけた。細い足の何処にそれだけの力があるのか、蝶番とロック機構を引きちぎって扉が弾け飛ぶ。
「ほら、お父さん!! パラシュート付けてるよね!?」
シェネラは言うが早いか、滝川博士の腕を引っ張って弾け飛んだ扉の向こうへ放り出してしまう。
「………シェネラ!!」
滝川博士の叫びは直ぐに聞こえなくなった。
 スイシーゼのカプセルの放出をしようと振り返った途端、右肩に激痛が走った。焼ける様な痛みが全身を貫く。
「やってくれた物だな………。この人形が………!!」
ベネウィッツは自ら拳銃を握ってシェネラに向けていた。憎々しげに視線をつり上げる。
「タキガワだけならばどうとでも情報操作できるが、そのBC-H204だけは逃がすわけにはいかないからな」
シェネラは大きく息をしながらベネウィッツを睨み付けた。しかし激痛のせいで視界がうまく像を結ばない。
「………ふざけないでよ………。私達を人形呼ばわりするお前何かに………スイシーゼは渡さない!」
シェネラは渾身の力を振り絞ってベネウィッツに殴り掛かった。虚を突かれたベネウィッツはシェネラの予想外の力に押されて転倒する。だがシェネラはそれに追い打ちを掛けずにカプセルへと取り付いた。緊急放出用に備え付けられていたらしいレバーを一気に引き下ろす。途端、圧搾空気の放出音と共にカプセルが床に吸い込まれるように消えていく。
「この人形が!!」
叫びが直ぐ後ろから聞こえた。振り返る間もなくシェネラは後ろから強く後頭部を殴られ倒れ込む。軽い脳震盪を起こしたのか、体が思うように動かない。突然、視界の隅に現れた軍靴の底が、右肩の傷を踏みつけた。
「あああああっ!?」
激痛に悲鳴を上げる。なおも軍靴の底は傷口を容赦無く踏みにじった。
「あうっ、ぐっ、ああっ!!」
シェネラは必死に軍靴の底から逃れようとするが、脳震盪と激痛のせいで体が言う事を聞かない。
「厄介なことをしてくれた物だな、人形の分際で………!!」
ベネウィッツはそう叫ぶと、一際強くシェネラの右肩を踏み付けた。シェネラは余りの激痛に声にならない悲鳴を上げる。
「至急本部へ連絡して捜索隊を出せ!! 何としてもBC-H204とタキガワを回収するんだ!!」
小さく舌打ちしたベネウィッツは側の兵士に怒鳴りつけた。シェネラはその言葉を聞きながら、急速に遠退いていく意識を繋ぎ止めることは出来なかった。

Scene-8. 箱根山山中

 目を覚ました時、視界には何も入らなかった。何かに囲まれて光が遮断されているのか、ただ単に夜なのか一瞬では予想が付かなかったが、手袋越しに伝わってくる土の感触が少なくとも室内ではないことを物語っていた。何より、緑の木々の臭いが充満しているここが室内であろうはずはなかった。となるとただ単に夜なのだろう。
 真っ暗な周囲を見渡して、次第に目が暗闇になれてくる。幸い月は出ている。まだ葉が生い茂る時期ではないのか、月明かりが若干の視界を約束してくれた。
 立ち上がる。足が柔らかい地面を踏みしめた。周囲を見回すが、人の営みらしい光は見えない。今立っている後方は急な登り斜面になっていて、暗闇ではうまく上れそうにない。前方にはなだらかな下り斜面が続いている様だった。
 文字通り右も左も分からない。自分が何故ここにいるのかさえも知れない。そして自分が誰なのかさえも………
 当然知っているはずの自分自身の事さえ知らないことに気付いて愕然とする。
 自分の体を触ってみる。優に腰まで届くロングヘア、暗くて色は分からない。俯くと、成長しきってはいないが確実に息づいている胸の膨らみが、何かは分からない服に包まれて動悸と共に上下している。自分は女なのかと確認する。
 しかしそれだけでは自分を主張する手がかりにはならない。この世界の半数は女性なのだから。
 言い様のない不安が心を一瞬にして満たした。誰かに側に来て欲しかった。自分のことを知っている人でなくてもいい、ただ誰かに側にいて欲しい。
 暗闇の中を歩き出す。なだらかな斜面を降りていく。何度か足を取られそうになってよろめく。時には張り出した枝に顔面を強打した。
 涙が溢れてくる。不安と入れ替わりに恐怖が、言い様のない恐怖が心を満たす。真夜中の突然の足音に驚いたらしい野鳥が、甲高く鳴いて飛び立った。ビクッと肩を振るわせて足を止める。もう立っていることさえ出来なかった。その場に崩れ落ちて嗚咽を漏らす。どうしようもないと分かっていてもどうしても止まらなかった。
 暫くその場に留まっていると、何処からか低いうなり声のような音が聞こえてくる。動物のうなり声ではない。何か、爆発音を無理に消音しているような………エンジン!?
 勢い良く立ち上がる。山々に反響しているのか、音の方向が掴めない。見回してみる。三回ほど見回した時、何かが光るのが見えた。まだ遠い。しかし確実に近付いてくるようだった。
 無我夢中で走り出した。それが何かは分からないが、何より、一人でいたくない。誰でもいい。誰か側にいて………!!
 一心不乱に森の中を駆け抜ける。何度も木々の根に躓いて転びそうになる。それでも不思議なほどに転倒せず、それこそ風のような速さで走り抜けていった。

Scene-9. 箱根山路上

 今日は妙に道が空いていた。
 ゴールデンウィークに一度走ってから不思議と病みつきになってしまった道を、その青年はバイクで飛ばしていた。別に目的があったわけではなかった。ただ、気の向くままに走って、適当なところでUターンする。時には帰宅するのが明け方という事もある。いや、今日はどうやらそのパターンか。
 きついカーブを高速で突っ込んでいく。強烈な遠心力が体をバイクごと道路から弾き飛ばそうとしている。カーブが終わると、短い直線の後に再びカーブに突入。気を抜いている暇はない。それがまた心地よかった。
 再び、今度は少し長い直線を駆け抜ける。道路脇に既に閉店していて自動販売機の光だけが煌々と灯っているドライブインが見える。帰りに寄るか、等と考えながら通り抜ける。
 再びカーブに突入する。途端、言い様のない恐怖感が背筋を駆け抜けた。それは予感だったのか。慌ててブレーキを掛けた瞬間、道路脇の草むらの中から何かが飛び出してくる。
「………んなっ!?」
「きゃあっ!?」
思わずフルブレーキを掛けてしまう。後輪がロックして派手にバイクの後ろが横に流れていく。走っていた慣性を押し殺せなかったタイヤが路面を蹴ってバウンドした。
 一瞬、目の前が何も見えなくなる。転倒した音と痛みを、自分とは別の物のように感じた。
 気絶はしなかったらしい。幸い頭も打たなかった様だ。痛む体をさすりながらノロノロと立ち上がると、飛び出してきた物へ視線を転じる。
 呆然と立ち尽くしているのは少女だった。年の頃は15歳か、越えても16、7歳だろう。全身をライダースーツの様な妙な服で包み、腰まで届く不自然に赤いロングヘアの少女。目の前で起こった、自分が起こしてしまった事故に恐怖感が芽生えたのか、足が震えて肩で息をしている。
 青年はヘルメットを脱いで少女に近付いた。
「おい君、何だってこんな処で飛び出しなんか………」
青年がそう言いかけた途端、少女の両の瞼に涙が溢れた。溢れ出た涙は所々土で汚れている頬を流れ落ちる。
「………あ………人に、会えた………」
少女の口が呟くように言葉を紡ぎ出す。
「………?」
怪訝な表情を返した青年の目の前で、突然少女は膝を折った。そのまま糸の切れたマリオネットの様に路上に崩れ落ちる。
「おい………!?」
青年は慌てて倒れようとする少女を抱き留めた。少女は力無く腕を垂らし、目を閉じていた。恐慌状態が気絶を引き起こしたのだろう。
「まいったな………」
青年は少女を抱き抱えたまま途方に暮れる。取り合えず、少し前で見たドライブインへ戻るか、と、バイクを道端に止めてキーを抜くと、少女を抱き上げて歩き出した。

Scene-10. 箱根山ドライブイン

 青年はため息を付いてキリンレモンを喉に流し込んだ。心地よい微炭酸が喉を打つ。しかし青年の顔は妙な拾い者のためか、優れなかった。
 青年は長椅子の端に腰掛け、足を組んでいた。その長椅子の半分以上を占拠して寝ている少女はピクリとも動かない。
 青年はよくお人好しなどと馬鹿にされていた。彼自身はそれが悪いことなどとは微塵も思っていないが、友人連中に言わせると度を超したお人好しらしい。その癖がここでも出たか、青年は少女の顔から取り合えず土を拭ってやり、ツーリングの際は持ち歩いているタオルを濡らして額に掛けてやっていた。暫くは目を覚まさないだろうと思い、他人がいないのを確認してからバイクを取りに戻ったりもしている。やはり少女はその間も全く目を覚まさなかった。
 「………どうしたもんかな………」
青年は途方に暮れた表情で少女の寝顔───と言っていいのだろうか?───を覗き込む。
 やはり15歳程度の少女にしか見えない。髪は染めてでもいない限りお目にかかれない様な赤毛だが、柔らかく、とても染めているようには見えなかった。かと言って、色を抜いている訳でもなさそうだ。早い話自前の髪である。
 一目見た時から変だと思い続けている服は、体にフィットしているらしいライダースーツ、と言うよりはSFか何かで物理法則を無視して出てくる宇宙服か。間接の所々に何かをはめる為の物であろうコネクタが備え付けられており、背中には金属らしいがよく分からない素材で出来た薄いバックパックが張り付いている。色は少し青みがかった明るい灰色。関節部分だけは黒いメッシュ状の素材で動かし易くなっているらしい。
 見れば見るほど妙な女の子だ。青年は苦笑いをして、再びキリンレモンをあおった。
 「………ん………うん………」
少女が呻くような声を漏らす。青年はハッとして視線を少女に向けた。少女の瞳が少しずつ開かれていく。焦点の合っていない瞳は赤みがかった茶色だった。
「おい。大丈夫か?」
青年は少女の瞳が完全に開くのを待ってから言った。その言葉に、少女は突然跳ね起きた。額に掛かっていたタオルが膝に転がり落ちる。そして少しずつ振り返って、青年の方に向き直る。
 暫し、少女は無言で青年の瞳を見る。青年は何か金縛りにでもあったようにその場で動きを止めた。少女の瞳が妙に純粋な物に見える。
「………あ、あの………ここ………どこ………?」
少女は辿々しい言葉で呟くように言った。その言葉で金縛りが解けた青年は少し慌てて答える。
「あ、ああ、箱根だよ。箱根のドライブイン。正確な場所は地図でもないと教え辛いけど」
「箱根………」
少女は確認するかのように呟くと、再び口を開いた。
「あ、貴方は………?」
「俺は衿岡陽介。君は?」
青年、衿岡陽介は答えると、少女に微笑んだ。しかし少女は陽介の瞳を凝視したまま答えない。陽介が怪訝な表情を返すと、少女は突然視線を逸らして俯いてしまった。
 「どうしたの?」
陽介は訝しげに少女の顔を覗き込む。途端、少女はか細い声で呟いた。
「………分からないの………」
「………え………?」
陽介は少女の言った意味が直ぐには理解出来ずに間抜けな表情を返してしまう。
「………分からないって、まさか、自分のことが………?」
陽介は些か愕然としながら呟くように聞く。事故に会い掛けたショックで記憶喪失になったのではと思うと背筋が冷たくなる。少女は陽介の言葉に頷いてから語りだした。
「目が覚めたら森の中にいたの………。一人ぼっちで、何にも分からなくて………、ものすごく不安で………」
少女は俯いたまま続ける。
「とにかく誰かに助けてもらいたくて………、そうしたらエンジンの音と光が見えたから………」
「だから一目散に走って飛び出しちゃった、と」
少女は先を続けた陽介の言葉に頷いた。取り合えず記憶喪失自体に陽介の責任はないようだが、だからと言って記憶喪失であるという現実がどうなる訳でもない。
 「………参ったな………」
陽介はそう呟いて頭を掻いた。
「………ごめんなさい………」
その様子を見ていた少女は不安げに呟く。
「いや、謝られてもね………」
陽介は自分の一言から発してしまった居心地の悪い空気を感じながら言う。何とかこの空気をどこかへ飛ばしてしまいたかった。救いを求めて視線を周囲に投げかける。
ドライブインを照らしている街頭よりも明るい自動販売機の光が目に入る。ジュースの自動販売機の列の中に、アイスとハンバーガーの自動販売機が並んでいるのに気付いた。
「腹減ってないか?」
「え………? うん………」
少女は突然の問いかけに一瞬驚いたようだが、間をおかずに答える。陽介は少女の答えを聞くと立ち上がった。
「ちょっと待ってな」
そう言って、自動販売機にコインを放り込む。チーズバーガーを選んでスイッチを押す。中で暖めているらしい表示が点滅し、取り出し口に袋詰めのチーズバーガーが落ちてきた。もう一度コインを挿入し、同じ物を買う。それから隣の自動販売機でオレンジジュースを買うと、ベンチに戻った。
「ほら。食べなよ」
陽介は微笑んで、チーズバーガーとオレンジジュースを手渡す。少女は怖ず怖ずと手を伸ばし、それらを受け取った。
「………ありがとう」
少女は袋を開けて、チーズバーガーに小さな口で噛みついた。それを見てから陽介もチーズバーガーに噛みつく。
「美味しい………」
今まで自動販売機で買ったハンバーガーに一度たりとも美味しい等と思ったことの無かった陽介は思わず苦笑いをして言う。
「そんなに美味しいか?」
「うん。とっても美味しい」
少女は言って、少し元気が出たのか瞬く間にチーズバーガーを平らげてしまった。と、最後の一口が喉に詰まったのか、少女は慌てて胸を叩きだす。
「おいおい!」
陽介は慌ててオレンジジュースの缶を開けると少女に手渡す。少女は詰まったチーズバーガーをオレンジジュースで流し込むと、ほっと一息付いた様だった。
 陽介はその様に思わず笑ってしまう。少女も陽介につられたのか、小さく笑みを浮かべた。その笑みはやはり、瞳と同様に純粋で、素直な表情だった。
「やっと笑ったね」
陽介は少女の笑顔を見て言う。少女は暫く驚いたような顔をしていたが、ややあって再び笑みを浮かべた。
「やっぱり、何も思い出せないのかい? せめて名前くらいはさ」
陽介はキリンレモンの缶を空にしてから言った。少女は暫く黙っていたが、ややあって口を開く。
「やっぱり、思い出せないの。でも………」
「でも………?」
陽介は言い淀んだ少女に怪訝な表情を向ける。
「でも………“スイシーゼ”って言う言葉だけ、頭の中から離れないの」
「スイシーゼ? 何だそりゃ。名前って訳でもなさそうだけど」
「よく、分からない」
陽介は暫く考えてから言った。
「でも、ま、名前がないと不便だよな。だから、スイシーゼ………は何か言い難そうだから“シーゼ”って呼んでいいかな?」
少女は驚いて顔を上げる。陽介の瞳を正面から凝視して呟く。
「私の、名前………?」
「そう。“シーゼ”ってのでいいかな? そりゃ、本当の名前が分かるまでの間だけどね」
 陽介は笑顔を少女の視線に返して言う。少女の顔が少しずつ綻んでくるのが分かった。自分を示す、今の所唯一の物、人間が生まれたときに与えられて、自分自身を指し示す目印となる名前。それさえ忘れてしまった少女は、便宜上とは言え自分に名前が付いたことが嬉しかったのだろう。
「うん。ありがとう………えっと………」
“シーゼ”と名付けられた少女は、そこまで言って困惑したような表情を浮かべた。陽介は少し笑って、先を続ける。
「陽介。俺の名前は陽介だよ」
シーゼは小さく舌を出して照れ笑いをすると、もう一度言い返す。
「ありがとう、陽介!」

Scene-11. 箱根山山中

 その男達は広大な森の中で待ち合わせていた。一人は場にそぐわない白衣姿で、背負ったパラシュートを外しに掛かっている。もう一人は登山服姿の男だ。歳は30歳くらいか、多少がっしりしている骨格をしている。くすんだ色の金髪で瞳は青い。日本人ではないようだが、その仕草や服装は日本人的な物が漂っている。
「よく、見付けてくれた」
白衣の男はパラシュートを丸めて地面に落とすと言った。登山服の男は答える。
「夜の闇に白いパラシュートでは、見付けるなと言う方が無理ですよ。滝川博士」
「それもそうか」
滝川博士は面白くもなさそうに言う。その瞳が四方八方を見回しているのに登山服の男は気付いた。
「どうしました? シェネラとスイシーゼですか?」
その言葉に滝川博士は一瞬言葉を詰まらせる。
「いや、スイシーゼ一人だ………」
「………?」
その答えに登山服の男は怪訝な表情を返した。
「脱出が事前にベネウィッツに知られていた様だ。シェネラは私とスイシーゼを守るために奴等と戦って………。スイシーゼのカプセルが放出されたのは見えたのだが………」
「そうでしたか………」
登山服の男はどう言葉を掛けて良いのか分からずに言い淀む。滝川博士は哀願するような瞳を登山服の男に向けた。
 「たのむ、少し時間をくれないか。私はスイシーゼを捜したい」
「それは聞けません」
「ハロルド博士!!」
滝川博士は思わず声を荒げて言った。ハロルド博士と呼ばれた登山服の男は暫し目を閉じて答える。
「今貴方が動くのは非常に危険です。スイシーゼ探しは私に任せてくれませんか?」
「ハロルド博士………」
滝川博士は暫くハロルド博士の視線を受けとめていたが、ややあって口を開いた。
「すまなかった。娘のことを、頼む………」
苦しい決断をした滝川博士はそのまま口を噤んでしまう。ハロルド博士はそれを確認して歩き出した。
「滝川博士、この下に私の車が止めてあります。途中のドライブインで仲間と落ち合う事になっていますから、そこまでお連れしましょう。後は私が探します」
「すまない」
滝川博士はそれだけ答えて、ハロルド博士の後に続いた。その足どりは重い物だった。

Scene-12. 箱根山ドライブイン

 「さて、これからどうするかな」
陽介は星を見上げながら呟いた。
「どうするって?」
シーゼは怪訝な表情を向ける。
「いや、記憶喪失なら記憶喪失で、警察にでも行って身元を確認しないといけないし、場合によっては病院にも行かないといけないだろ?」
陽介は何気なく答えたのだが、その途端シーゼの表情が凍り付いた。その変化に陽介が気付くのは容易なことだった。
「どうしたんだ?」
「………だめ!」
陽介の問いに間髪入れずに答える。
「警察………病院………だめなの!!」
「だめ? どうして?」
陽介はシーゼの顔を覗き込んで言った。シーゼは目を見開き頭を抱えて震えている。
「よく、分からない。だけど、とにかくだめ………!」
陽介はシーゼの様子に暫し考え込んでしまう。何かを隠している様子はない。ただ、おそらくは失っている記憶の一端がシーゼに告げているのだろう。
 シーゼは暫く黙っている陽介を横目で見て、再び俯くと呟いた。
「ごめんね、陽介………。シーゼのこと放っておいていいから………」
「んなこと出来るわけないだろうが!」
陽介はシーゼの言葉に思わず声を荒げていた。シーゼが驚いて身を竦ませるのが分かる。
「陽介………?」
シーゼが少し怯えながら陽介の瞳を見上げた。
「警察だか病院だかがだめなのだって、きっと消えてる記憶のせいなんだろ。だったらせめて落ち着いて病院に行けるようになるまでくらい面倒見てやるよ」
お人好し癖が完全に始まったらしい。陽介は言ってしまってから少し後悔したのだが、そんなことはおくびにも出さずにシーゼの肩を叩いた。

 「陽介!」
シーゼの表情が輝いた。陽介は何となく苦笑いを返しながら、シーゼの手を取る。
「とにかく来なよ」
陽介はシーゼの手を引いて立ち上がらせると、バイクにまたがった。そしてヘルメットをシーゼに手渡す。シーゼがリアシートに乗るのを確認するという。
「メット被って、しっかり掴まってろよ」
「うん」
シーゼは短く答えるとヘルメットを被り、掴まると言うよりは抱き付くように陽介の腰に腕を回した。陽介はそれを再び確認してアクセルを入れる。
「どうか警察に見付かりませんように!」
陽介は冗談混じりに叫んでバイクを加速させた。

 陽介達がドライブインを出てからほんの数分後、箱根山の山頂の方と麓の方からそれぞれ一台づつの車がドライブインに入ってきた。車は示し合わせたかのように───事実そうなのだが───隣同士に停車する。
 山頂の方から入って来た車からおりた登山服の男、ハロルド博士は助手席に座っていた滝川博士に言った。
「彼が私が頼んだ、ウチの研究室の研究員です。彼の車で下山して下さい」
ハロルド博士はそう言って、麓から入って来た車の運転手を指さした。
「すまないな」
滝川博士はそう言って助手席から出ると、車を乗り換える。ハロルド博士はそれを確認すると運転席の男に言った。
「研究室に帰ったら、増援を4、5人寄こしてくれないか。米軍との速度勝負となると私一人では荷が重い」
「分かりました。気を付けて」
男は答えて、車を発進させる。ハロルド博士はそれを見送ると、スイシーゼのカプセルが落下したと思しき地点へと車を走らせた。

Scene-13. 箱根山路上

 シーゼを乗せた陽介のバイクは箱根山を下るコースをひた走っていた。まだ日の出までには、と言うか明日までは時間がある。恐らく厚木の自宅に戻るのは明日になってしまうだろうが、夜が明けて目立つことはあるまい。ノーヘルで走って行るところを警察に呼び止められるのは避けたいし、その際にシーゼのことをどう説明すべきか分からない。早く帰るに限る。
「ねぇ! 陽介の家までどのくらい掛かるの?」
シーゼは陽介の腰にしがみつきながら言う。ヘルメット越しのその言葉は辛うじて陽介の耳に入った。
「この時間は空いてるから、そんなに掛からないよ。それでも2時間は掛かるから途中で疲れたら言って」
「うん」
陽介の答えにシーゼは小さく頷いて、ヘルメット越しに頭を彼の背中に押しつけた。陽介はそのシーゼの様子を気にするでもなく、ただバイクを走らせるのだった。

 この記憶喪失の少女との出会いが、後に陽介自身を地球の運命を左右する大事件に巻き込もうなどとは、この時の彼には予想も付かないのだった。