第2話『平穏な日々 ~ Calm days』

Scene-1. 1995年5月15日 土曜日 陽介宅

 結局、二人が陽介宅へと到着したのは14日を越えて15日の午前1時頃だった。神奈川工業大学の学生専用の様相を呈している陽介のアパート、サンローザ厚木近辺では真夜中にエンジン音がすることは日常茶飯事で、誰も気にしはしないのが幸いではある。まあ、真夜中に喧しいほどにエンジンを吹かす戯けた連中が、まともな陽介のバイクのエンジン音を気にするわけもないのだが。
 陽介宅のある棟はサンローザ厚木の建物が並ぶ中でも最も奥に位置していた。その二階の一番端が彼の部屋である。
「さ、着いたよ」
陽介は自宅の直前までバイクで入り込んでから言う。それを聞いてシーゼはキョロキョロと周りを見回しながら降りた。
「何だか、おんなじ様な建物が一杯あるんだねぇ」
シーゼはヘルメットを脱ぎながら、やはり周囲を伺っている。
「ま、そりゃアパートだからね」
陽介は軽く答えると、階段の脇にバイクを止めた。そして階段を上り始める。その後をシーゼが小走りに着いていった。
 階段を上ってすぐの部屋が陽介宅である。陽介は慣れた手つきで鍵を開け、シーゼを中へ導き入れた。
 入った先は大方のアパートの設計の例に漏れずキッチンになっている。向かって右側にコンロと冷蔵庫が並び、左側にバスルームとトイレ、そして正面の磨りガラス貼りの開き戸を挟んで6畳一間がある。学生が住むアパートとしては平均的ではあるが、ややキッチンが広い感覚を受ける。そんなことをシーゼが分かるはずもないのだが。
 シーゼは悪戦苦闘して複雑な構造の靴を脱ぎ、部屋へと入った。陽介は部屋の蛍光灯を点けてから、冷蔵庫の前へしゃがみ込んだ。
「何か呑むかい?」
そして部屋の真ん中にちょこんと座ったシーゼに言う。シーゼはピクリと反応すると、四つん這いでチョコチョコと近寄ってきた。
「なぁに?」
「何か呑むかい? 喉乾いたろう?」
「うん」
シーゼは頷いて、陽介が開けている冷蔵庫の中を覗き込んだ。余り整理されているとは言えない中身ではある。
「これなぁに? 一杯あるけど」
シーゼは冷蔵庫の一番下を占拠している大量の缶を指さした。
「ん? ああ、キャロットジュースだよ。俺はあんまり好きじゃないんだけど、実家から大量に送られてきてね。正直持て余してたんだ」
陽介は少し苦い顔をして言った。確かに、余り好きでもないのに数十本も送られてきた日には愚痴りたくもなろう。シーゼは陽介の言葉を聞いてからちょっと頷いて、そのキャロットジュースを再び指さした。
「シーゼ、これ飲んでいい?」
「OK」
陽介は笑ってキャロットジュースと自分の麦茶を手に取った。シーゼは陽介からキャロットジュースを受け取ると、部屋の真ん中に座り込んで飲みだした。
「美味しいぃ!」
やはりというか、シーゼは見るからに美味しそうにキャロットジュースをその喉に流し込んでいく。元々大きくない缶、ジュースはさほど時を置かずに空になった。
「ごちそうさまぁ」
飲み終わると笑って言う。

 その間に、陽介は押し入れを覗き込んで衣類を漁っていた。部屋にタンスを置くスペースはなく、押し入れの一部をタンス代わりにしている。シーゼはその陽介の様子をきょとんと見つめて言った。
「ねぇ陽介ぇ、何してるの?」
「ん? いつまでもその格好じゃいられないだろ。確か前に買うだけ買って使ってないパジャマがあったと思ったんだよな………」
陽介は押し入れを漁ったまま、振り返らずに答える。シーゼは言われて自分の格好を眺めた。ライダースーツとも宇宙服とも取れない妙な服は、体に密着して首から頭以外は完全に覆っている。所々汚れも付いていた。
 「お、あったあった」
そう言って押し入れから出したのは目新しい───当たり前だ───水色のパジャマだった。よく見ると未だに値段票がぶら下がっている。陽介は手近なハサミで値段票を切ると、そのパジャマをシーゼに手渡して言った。
「取り合えず、男物で悪いけどこれに着替えなよ。俺あっちに行ってるから」
陽介はそう言って立ち上がると、キッチンに出て開き戸を閉じた。シーゼは何か不思議そうにその陽介を見つめていた。
 シーゼはパジャマを床に置いて、立ち上がった。暫く自分の服を見回してから、喉元にあるらしいファスナーを引いた。途端、胸を覆っている樹脂製らしいアーマーに引っかかって止まってしまう。動き易さを重視するためかアーマーその物は柔らかい素材だが、背中のバックパックと連結されているベルト部分がなかなか外せない。かと言って何処から手を入れてもファスナーまでは届かない。
 シーゼは少し困惑してから、磨りガラスの開き戸越しに背中を向けている陽介に向けて言った。
「ねぇ陽介ぇ」
「なんだい?」
陽介の返事は間髪入れずに返ってきた。シーゼはニッコリと笑って、エラク明るく言った。
「脱ぎ方、分かんない」
陽介の返事は暫く返ってこなかった………

Scene-2. 箱根山山中

 その時、登山服の男達5人は何かの金属製のカプセルの回りを取り囲んでいた。カプセルは高高度から投下された故か、接地している下部が柔らかい土にめり込んでいるにも関わらず少しひしゃげている。扉は無造作に開かれていて、中身はない。
「………スイシーゼが、いない?」
登山服の男達のリーダーらしき男が呟いた。くすんだ金髪の男性である。
「いや、放り出されたのか」
そう続けてカプセルの周囲を見回す。カプセルの手前には殆ど崖の様な急な下りになっていて、恐らく中身はそちらへ落ちているのだろう。
「降りて調べてみますか?」
カプセルに取り付いて観察していた男が言う。それに金髪の男は間髪入れずに答えた。
「無論だな。もしかするとスイシーゼは記憶処理されたまま目覚めているかも知れない」
金髪の男性はそう言って、急な斜面に降り立った。殆ど滑り落ちるように降りていく。
 降りた先に、土が不自然にへこんでいる箇所がある。他の土が軟らかいのに比べて、そこだけ強く押しつけられた様に堅くなっていた。
「ここに落ちたらしいな。叩き付けられた跡がある………」
金髪の男性はその傍らにしゃがみ込んで呟いた。見回すと足跡が点々と続いている。
「この足跡がスイシーゼの物でしょうか?」
後から降りてきた男が言う。最後に降りてきた男は先に降りた男達と自分の足跡を消していた。
「そうだろうな。この足跡を追っていこう。米軍の奴等もそろそろやってくるだろうからのんびりはしていられないぞ」
男達は金髪の男性を先頭に、足跡を追って歩き出した。最後の一人はやはり、追っている足跡と共に自分たちの足跡を消していた。

Scene-3. 陽介宅

 陽介はシーゼの服のアーマーを観察していた。確かに、服を着た上から装着しているのか、アーマーを外さない限り服は脱げそうにない。アーマーは背中のバックパックと、肩と腰を経由したベルトのようなパーツで連結されている。外すとしたらこのパーツを外す以外にはあるまい。
「そう言えば、どうやって靴脱いだんだい?」
陽介は部屋に入る際にシーゼが靴を脱ぐのにエラク悪戦苦闘していたのを思い出して言った。
「あのね、変な丸いの回したら緩んだの。あとファスナーでくっついてたから外したんだ」
シーゼは両腕を横に伸ばしながら言った。
「成る程、丸いのを回す、と………」
陽介は呟いて、パーツの両サイドに付いている丸いパーツを回してみた。胸のアーマー側のパーツは固定らしく動かないが、背中のバックパック側のパーツは回転した。
暫く反時計回りに回すと、そのまま抜けてしまう。
「お。外れた外れた」
陽介はその調子で、残り3つのパーツを外しに掛かった。仕組みが分かってしまえば後は簡単だ。
 4つのパーツは簡単に外れた。胸のアーマーをシーゼに持たせて、バックパックを外そうとするが、何かに引っ張られて外れない。陽介はバックパックと背中の間を覗き込んだ。何かのコードらしい物が繋がっている。パソコンのケーブル───ハーフピッチのSCSIケーブル───のようなコードで、コネクタの両脇を摘んで引くと簡単に外れた。
「一体何だい、こりゃ?」
陽介は外れたバックパックを物珍しそうに眺めた。
「ん?」
バックパックの上部辺りに、小さく何かが刻印されている。陽介はその刻印を読み上げた。
「BC-H204………? Project Alternative III? 何の事だ?」
 陽介がalternativeの意味を調べようと英和辞典に手を伸ばし掛けた時、不意にファスナーを引き下ろした音が耳に飛び込んできた。陽介はまさかと思いつつもシーゼの方を仰ぎ見る。シーゼは誰に隠すでもなく、唐突に服を脱ぎ出していた。
「お、おいっ!?」
陽介は取り掛けていた英和辞典を放り出してからキッチンへと駆け込んで開き戸を閉めた。動悸が止まらない。仰ぎ見た瞬間に視界に飛び込んできた、シーゼの胸の白い肌が目に焼き付いてしまっている。
「ねぇ陽介ぇ、どうして隠れるの?」
ガラスの開き戸越しにシーゼの怪訝そうな声が届いた。陽介はその一言で確信した。
 それが記憶喪失が引き起こした物か元々なのかは分からないが、見掛けの歳不相応の精神年齢、平たく言えば中身だけ幼く無邪気な子供のままなのだ、このシーゼという少女は………

Scene-4. 箱根山ドライブイン

 空に何機ものヘリが滞空していた。サーチライトを地面に幾筋も当て、何十人という米軍の物らしい捜索隊が山に踏み入っていく。
 その様をドライブインで見ていた金髪の男性、ハロルド博士は呟いた。
「………無駄なことを………」
足跡を追いかけていた彼らは、突然歩幅が大きくなったのを追いかけて、道路に出てしまった。彼らが車を止めているドライブインの近くで、足跡が無くなった辺りの道路にバイクがスリップした跡らしいブラックマークが刻まれている他は手がかりは無かった。
「………誰かと接触したという事だな。そして記憶喪失と間違われて保護されたと言う事か………」
ハロルド博士は呟いて、上空を見上げた。
「あの分だと、熱源探知も総動員だな。我々が足跡を消して足どりを掴めなくしたから彼らの捜索は大分手間取るはずだが………」
「それでも素人がやった証拠隠滅なんて、奴等にすれば子供だましでしょう」
側で缶コーヒーを飲んでいた男が言う。
「しかし、日が昇るまでは見付かるまい」
ハロルド博士はそう答えて、滝川博士を送っていった車の運転手に言った。
「山を登ってくる途中に何かとすれ違わなかったか?」
問いかけられた男は暫く黙ってから、呟くように答えた。
「車が数台………。あと二人乗りのバイクが一台ですか。運転手がノーヘルだったんで印象に残っているんですけど?」
「運転手がヘルメットを被っていない、二人乗り?」
ハロルド博士は暫く考え込んだ。
こんな人里離れた山奥での二人乗りにも関わらず、ヘルメットが一つ………?
つまり予定外の同乗者という事か………!
「それだ!」
ハロルド博士は叫んでから、車に駆け寄った。
「ハロルド博士!?」
男達が突然行動を開始したハロルド博士に驚いて言う。
「そのバイクが恐らくスイシーゼだ! 彼女は誰かに接触して山を下りている! 研究室に戻ってセンサーを出すぞ!」
ハロルド博士はそう言って、車に乗り込んだ。後を追って男達が二代の車にそれぞれ乗り込んだ。車はドライブインを飛び出して下山コースへと走り出した。

Scene-5. 陽介宅

 シーゼが開き戸を開けた。振り向いた陽介の視界にパジャマを着込んだシーゼが見える。身長170程の陽介用に買ったパジャマはどう大きく見積もっても150前後くらいのシーゼの身長では大きすぎるらしく、シーゼは余分に飛び出している袖をちょこんと摘んでいる。
「あ、着替えたね」
陽介は未だ動悸が止まらない胸を落ち着かせながら言った。
「うん」
シーゼは袖を摘んだ両手を肩の位置まで上げたポーズのまま言った。陽介はそのシーゼの仕草を極純粋に可愛いと思いつつ、再び押し入れを開けた。今度は布団を取り出す。6畳間の方にいつもは敷かないマットレスを敷いて、敷き布団と枕、掛け布団を順に積んでいく。最後に取り出した毛布を小脇に抱えたまま、陽介はシーゼに向き直った。
「シーゼはこっちで寝なよ。まぁ、記憶を失ってない頃にベッドで寝てたんだと少し寝辛いかもしれないけど」
「うん」
シーゼは頷いて、布団の上にちょこんと座り込んだ。陽介は毛布を抱えてキッチンへと入っていく。その様子をやはりシーゼは怪訝そうな視線で見つめていた。
「ねぇ陽介ぇ、何でそんなところで寝るの? そこキッチンでしょお?」
キッチンに毛布をおろした陽介は不思議そうに振り返って言った。
「いや、だって男と女の子が………」
そう言いかけた陽介の言葉を遮って、シーゼは悪びれもせずに言った。
「こっちで寝ればいいじゃない。そっち、寒そうだよぉ」
そう言ってニッコリと笑う。
「………え~と………」
陽介は言葉に詰まってしまう。この無邪気な程に純粋な少女に何と説明したらよいものか?いや、それ以前に説明などしたところで理解出来るのか?
 陽介が思案に暮れていると、シーゼの表情が不意に沈み込んだ。そして視線を布団に落として、呟くように言う。
「ねぇ、陽介ぇ………。やっぱりシーゼのこと、邪魔………?」
「いや、そうじゃなくて………」
陽介が返答に困っているとシーゼは更に続けた。
「急に隠れちゃうし………、シーゼと離れたところで寝ようとするし………。ねぇ、シーゼが邪魔だったら言ってよ………」
シーゼはそこまで言って涙ぐんでしまう。陽介は説明は不可能だと、妙に確信してしまった。そう、無理だ。この純粋すぎる少女に男と女の説明など出来るわけがない。
 「シーゼのこと邪魔だなんて思ってないよ」
陽介は無条件降伏を決めて、毛布を持って6畳間へ入った。そして窓際に陣取って毛布にくるまって座り込む。しかし、シーゼにとってはそれでも納得がいかないようだった。
「どうしてそんな寝方するの? 寝辛そうだよ?」
シーゼは涙を拭ってから四つん這いで陽介の処まで歩いてくると、ニッコリ笑って陽介が最も恐れていた事を言い放った。
「一緒に寝ようよ」
陽介は“来た!”と内心悲鳴をあげて狼狽えつつ、呆然としてシーゼの瞳を見つめ返した。大学の友人連中なら、こういう事態になれば喜んで添い寝するんだろうなと漠然と考えながら黙っていると、シーゼが両手を掴んでくる。
「ねぇ陽介ぇ、一緒に寝ようよ。その方が暖かいよぉ」
シーゼは子供が大人に甘える口調そのままで陽介の両腕を引っ張った。
「ねぇ陽介ぇ」
再び甘えた声を出すシーゼ。
「分かったよ………」
陽介は溜息をつきつつ、布団の、なるべく端に潜り込んだ。そしてシーゼに背を向けるように壁を向く。
 続いて布団に潜り込んだシーゼは小さな膨れっ面をしつつ、無理に陽介の肩を引っ張って仰向けにさせた。そして陽介が何か言い出すか、再び壁を向くよりも早く、その腕にしがみついてしまう。
 陽介は左腕にしがみついて悪戯っ子の様な微笑みを浮かべているシーゼに視線を向けると、苦笑いとともにため息をついた。結局こうなったか。陽介が自由になる右手でシーゼの頭を撫でてやると、シーゼは気持ちよさそうにして頭を腕にすり寄せて、そのまま目を閉じた。
 歳の離れた甘えん坊の妹が兄に甘えているだけなのだ、陽介は勝手に自分にそう言い聞かせて目を閉じた。

Scene-6. 箱根山上空

 山々の稜線から日の光が差し込みだした。次第にハッキリしてくる輪郭が、水蒸気のせいでぼやけて見える。だが、ヘリに乗っている男はそんな神秘的でさえある光景には一瞥さえくれずに、通信機にかじり付いていた。別に、彼自身が通信員だったわけではない。しかし、彼はこの事態の責任者であり、適切に配慮し、解決しなければ彼自身の命に関わった。
 通信機が一瞬のノイズを発してから地上の捜索隊と繋がる。
『こちら第15小隊。BC-H204のカプセルから続いている足跡の痕跡を発見。 ただし複数。足跡の隠蔽工作をした痕跡が認められます』
男はその通信に歯を噛みしめた。奥歯が鳴る。
『こちら第21小隊。BC-H204の姿を確認出来ず』
『こちら第10小隊。BC-H204の姿を確認出来ず』
『こちら第3小隊。BC-H204の姿を確認出来ず』
次から次へと絶望的な報告が舞い込んできた。男は再び歯噛みして、通信のヘッドセットを握りしめた。
 その時、延々と続いている通信が不意に途切れ、唐突に別の声が割り込んできた。
『BC-H204を見失ったようだな、ベネウィッツ………』
その声はひどく冷徹に言い放った。男、ベネウィッツの背中に汗が流れた。
「も、申し訳御座いません、ミスター・クラントン。ですが………」
『言い訳の余地はない』
なおも何かを言おうとしたベネウィッツの言葉を退けて声は言い切った。ベネウィッツが思わず凍り付く。
『Project Alternative IIIの機密、外部に漏らすわけにはいかん。BC-H204を発見出来なかった場合にどうなるか、分かっているな』
「はい、承知しております」
ベネウィッツは震える声で答える。
『よかろう』
通信機の向こうの声は短く告げると、通信してきた時と同じ唐突さで通信を切ってしまった。取り残されたベネウィッツは歯を噛みしめ、通信を地上の捜索隊の各小隊長へと飛ばした。
「直ちに撤収! もう箱根山にはBC-H204は存在しない!」
ベネウィッツはそれだけ言い放って、通信機のヘッドセットを床に叩き付けた。

Scene-7. 1999年5月17日 月曜日 陽介宅

 陽介がシーゼと奇妙な同居を始めてから3回目の夜が明けた。
 枕元で鳴り出した目覚まし時計をいつもの癖で左手で止めようとして、動かせないことに気付いて右手で止める。そしてテレビのリモコンを手探りで探し当ててテレビを付けた。朝は常に4チャンネルがかかっている。7時から始まる朝の番組が丁度いい目覚ましになるからだ。
「うにゃぁ………」
動き出した陽介に起こされたのか、シーゼが寝ぼけた眼を擦っている。
「………シーゼ、まだ眠いよぉ………」
そして甘えた声を出してから、陽介の左腕に再びしがみついた。
「おいおい、今日は大学があるって言ったろ?」
「………そうだねぇ………」
シーゼはノロノロと布団から這い出して座り込んだ。何度もあくびをしている。
 陽介は布団から出ると、さっさと畳みだしてしまった。シーゼは仕方なしに立ち上がって、布団を押し入れに入れるのを見ている。
 陽介は布団を片付け終わるとキッチンに入ってパンを焼きだした。その様子を再び床に座って見ていたシーゼは、不意に目を輝かせて言った。
「ねぇ陽介ぇ! 大学ってどんなところ?」
シーゼはパッと立ち上がって、キッチンの陽介の背中に抱き付いた。陽介はそんなシーゼの仕草には早くも慣れてしまったらしく別段驚きもせずに、すっと体の向きを変えるとシーゼの背中をポンと叩いた。
「別に珍しいところじゃないさ。人が一杯集まって勉強するだけ」
「ねぇねぇ、面白いところ?」
シーゼはなおも陽介の腕にしがみついて言う。陽介はそこはかとない不安を感じつつ答えた。
「そんなに面白いってモンでもないよ」
と、感動もなく言ったのだが、一度目覚めてしまった好奇心を萎えさせるには不十分だったらしい。シーゼは目を輝かせて陽介の腕にしがみついている腕に力を込めた。
「シーゼも行きたい!」
「だ~めっ」
陽介は間髪入れずに答えると、シーゼの頭を軽く叩いた。シーゼは不服そうな表情で騒ぎだす。
「シーゼも行きたい! 行きたい! 行きたいよぉ!!」
腕をバタバタと振り回して騒ぐ。ぶかぶかのパジャマが空気をはらんで文字通りバタバタと鳴った。それでも陽介は首を縦に振らない。
 シーゼは不意に静かになると少し俯いて、呟いた。
「だってシーゼ、独りぼっち、やだもん………」
そう言って、上目遣いに陽介を見る。
「ねぇ陽介ぇ」
シーゼは再び陽介の腕にしがみついて言った。
「分かったよ」
陽介は苦笑いと共に溜息をついて言った。どうもシーゼが甘えてくると嫌と言えなくなってしまったらしい。
「やったぁ!」
シーゼは言ってから軽くジャンプして、陽介の首に後ろから飛びついた。陽介はしがみついているシーゼの腕に軽く手を添えながら言った。
「でも大学の講義中は静かにしてないと駄目だぞ。騒いだら放り出すからな」
「はぁ~い!」
シーゼはしがみついたまま元気な返事を返した。陽介はやれやれと溜息を付く。パンの焼けた香ばしい臭いが鼻孔を心地よく刺激していた。

 朝食を済ませて後片付けを終えると、陽介は押し入れの中のタンスから服を2着ずつ取り出した。控えめな柄のワイシャツとジーンズだ。
 シーゼは今の所、陽介の服を借りて着ている。流石に下着はそうはいかないので土曜日に慌てて───パジャマの下に下着を着ていなかった事が判明した為───買いに行ったのだが、とんでもなく恥ずかしい思いをさせられた。シーゼ一人では買い物も出来ないから、結局女物の下着とソックスを数着、陽介がレジへ持っていったのだ。怪訝な表情を返した店員の顔が今でも克明に思い出せる。
 シーゼはまた、誰に隠すでもなく着替え始めた。陽介はもう慣れてしまったらしく、澄まして背中を向ける。流石に“一緒にお風呂入ろう”と言われた時は断固として断ったのだが。
 陽介は次第に慣れてきているとは言え、未だに抵抗があるため、着替える時だけは開き戸の向こうに隠れている。シーゼは勝手に納得したらしく、その事について文句は言わなくなった。
 陽介は着替え終わって再び6畳間へ入ってくると、講義の準備を始めた。鞄に無造作に教科書を放り込んでいく。時間は既に9時を回っていた。
「さて、行こうか」
「うん!」
シーゼは元気に頷いて陽介の腕にしがみついた。陽介は苦笑いをして言う。
「大学に行ってる間はあんまりベタベタくっ付くなよ」
「なんでぇ?」
予想通りの返答が返ってくる。この返答が返ってきた時はもう絶望だった。普通は身に付けているであろう一般常識的な感覚が欠落しているシーゼを相手に、この手のことを説明する手段などはない。恐らく“恋人同士と間違われる”などと説明したところで“なんでぇ?”と再び返答されるのがオチだろう。
 しかし陽介もこの返答に関して説明する手段の代わりに回避する手段を身に付けていた。
「シーゼにはまだ分からない理由だよ」
そう言って頭を撫でてやると、シーゼは大体納得した。純粋すぎる故だろうか。
 陽介達は部屋を出ると、ドアに鍵を掛けて階段を下りていった。

Scene-8. 神奈川工業大学B5号館2105教室

 この大学は朝一の授業は基本的に出席率が低い。最寄り駅の本厚木からバスに乗って平均30分、学バスが他校に比べて少なく、且つ路線バスも一時間に片手で数えられるほどしか来ないのだから、全員が全員遅刻しないで来ると言うのは殆ど不可能だった。
 よって、割と後方の席を陣取ることが出来る。ただ、あまりにも後方だと遅刻者で回りを塞がれることになるので、微妙な調節が必要になる。
 陽介はやや後方の窓際の席を陣取ると、シーゼを一番窓際に座らせた。シーゼの赤毛は否が応でも目立つ。しかもこの授業の教授とは割と親しい中だ。それを思うと先が思いやられる。

 9時30分になった。授業の開始である。教室の後ろの壁にある扉を開けた教授は、迷惑なことに一瞬にして赤毛の存在に気付いてしまった。つかつかと歩いて来て、後ろから唐突に陽介の肩を叩く。
「どうした衿岡、今日は彼女連れか?」
「い、いや、そんなんじゃないんですけど………」
陽介はキョトンとしているシーゼを挟んで教授に言う。頬を一瞬冷や汗が流れ落ちたように感じた。だが教授はからかうように笑って一言だけ言った。
「イチャつくのは教室の外にしろよ」
「………へいへい」
陽介は教授の後ろ姿を見送りながら小さく溜息を付いた。取り合えず、第一難関は突破である。

Scene-9. 神奈川工業大学A1号館前

 1時限目の講義を無事終了して2時限目との間の休み時間、陽介はシーゼを連れてA1号館1階、第一食堂の前に来ていた。A1号館は二階を第2体育館として使用している大きな館で、学内では最も大きい第一食堂を擁している。昼食時の混雑を避けて時差昼食を食べている学生たちを除けば空いていた。
 陽介はシーゼに面と向かってピッと人差し指を立てた。
「これから一時間と少し、ここで待っててくれるか?」
「なんでぇ?」
シーゼはキョトンとして言う。
「あのな、良く聞けよ」
陽介はそう前置きしてから説明した。
「今度の講義は今の講義ほど教室がでかくないんだ。だからシーゼを連れて来たのが直ぐにばれちまう」
「さっきもばれてたよ」
シーゼは陽介の説明を遮って言った。陽介は人差し指を立てていた右手でシーゼの口をすっと塞いだ。
「大学の講義ってのは、本当は学生しか入っちゃいけないんだ。今度の講義は生徒の数が少ないから目立っちゃうんだよ」
「シーゼいけないことしてたの?」
シーゼは少し意外そうな表情で言った。
「まぁ、大きい教室なら教授もうるさく言わないからいいけど、小さい教室だとマズイな。だから、次の講義が終わるまで待っててくれよ。終わったら直ぐにここに来るから」
「うん」
シーゼは小さく頷いて言った。そして人差し指を地面に向ける。
「ここで待ってるのね?」
「そう。一時間半ぐらいしたら戻ってくるよ」
陽介は鞄の中から部屋の予備キーを取り出してシーゼに手渡すと続けた。
「家に戻っていたかったら鍵渡しとくから」
「うん。終わったら直ぐ帰って来てね。約束だよぉ」
シーゼは陽介の左腕にしがみついて頬を押しつけると言った。そして直ぐに離れて正門の方へと走っていく。

 陽介は小さく溜息を付いて再びB5号館に向かって歩き出した。と、その時………
「よう衿岡!」
唐突に背後から背中を強く叩かれる。陽介は一瞬息を詰まらせてから振り返った。
「なっ!? 衛藤(えとう)!? 何だよいきなり!?」
陽介はたまらずに不平の声を上げる。今のは真剣に痛かった。衛藤と呼ばれた───先週バスに振り回された───友人はその陽介の不平の声には耳を貸さずに、走り去っていく赤毛の少女を指さした。
「………なんだ、アレ?」
そう言って、いつもは絶対に見せないような真剣な眼差しを見せる。陽介は一瞬言葉に詰まってから、慌てて言った。
「あ、いや、従兄弟が用事があるとかで来ててさ………」
「衿岡の嘘って分かりやすくていいよな」
「う………」
衛藤の冷ややかな一言に、陽介は再び言葉を詰まらせた。
「どこの世界に人前で誰の目も気にしないで腕にしがみついて甘える従兄弟がいるってんだ? あ?」
衛藤はなおも詰め寄って言ってくる。と、ピッと小指を立てて陽介の目の前に出した。
「お前も隅に置けないよな、コレなんだろ?」
「………………違うよ」
陽介は溜息混じりに答えた。やはり周囲にはそう見えるか、当然ではあるが。
 陽介は再び大きく溜息をついて、教室へと歩き出した。
「おい、白状しろって!」
衛藤友人は引き下がるつもりはないようだった………

Scene-10. 新世紀科学研究所別室

 神奈川県海老名市にその研究所はあった。研究所とは言っても研究施設だのが詰め込まれているわけではないマンションの一室ではあるが、そこに出入りする者達はそこを“新世紀科学研究所別室”と呼んでいた。別室というのは、研究自体は別の施設でやっていて、情報収集の拠点として別に設けた事による通称だった。
 ハロルド博士達は別室に帰ってくると、戸棚を開けて通信機のような物を次々と取り出していた。ハロルド博士は取り出したそれを男達に手渡していくと言った。
「電源の予備は出来得る限り持って行ってくれ。センサーを感度最大にしてパッシブにセット。どうせスイシーゼが“力”を使わない限りはこのセンサーでは捉えられないからな」
ハロルド博士はそう言って、自分も通信機に似たセンサーを手に取った。そのセンサーはスイシーゼが何らかの力───何の力かは分からないが───を発揮したときに反応するらしい。
「センサーがスイシーゼの大体の場所を感知したら直ちに連絡。研究員全員をその場所に投入してセンサーをアクティブにセット、場所を特定する」
研究員達は一様に頷くと、次々と研究所を飛び出していく。ハロルド博士は全員を見送ってから、自分も研究室を出ていった。
「おそらく、米軍に先を越されるな………。スイシーゼが自衛手段として力を使えればいいのだが………」
ハロルド博士は研究員達に聞こえない程度の声で呟くとエレベーターに乗り込んだ。

Scene-11. 神奈川工業大学A1号館前

 2限目の講義が終わって昼食時になった第一食堂は席が足りなくなるほどの賑わいを見せていた。ピーク時には全校で3000から4000人の生徒がいると言うのに、食堂の席の数は余りにも少ない。大学前にコンビニが3軒も密集しているのはそのせいだろうし、弁当屋、定食屋、レストランなどがこの僻地にそろっている事にも関係しているだろう。
 その賑わいを見せる第一食堂の入口近くで、シーゼは陽介宅から持って来たキャロットジュースを飲んでいた。長さの余った袖に包まれた両の拳を軽く握って、缶をちょこんと挟んでいる。
 シーゼはキャロットジュースを軽く喉に流し込んでから周囲を見回した。そろそろ陽介が戻ってくる時間だが、よくよく考えたらどこから出てくるのか分からない。暫くキョロキョロしていると、正門とは逆の方から陽介が歩いてくる。シーゼはパッと表情を輝かせて、右腕を大きく空へ伸ばした。
「陽介ぇ~!!」
そしてとんでもなく大きな声で叫ぶ。陽介はその声に慌てて駆け寄ってきた。
「おかえり、陽介ぇ!」
シーゼは笑って言うが、陽介は軽くこめかみを押さえて苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「んな“弩”が付くようなデカイ声で呼ぶなって………」
と呻くように言う。だがシーゼは言っている意味が分からないのか、キョトンとしている。陽介は小さく溜息をついて、苦笑いをもらした。
「ま、しゃあないか。食堂混んでるから、少し時間をずらして食べよう」
「うん」
シーゼは小さく頷いて、歩き出した陽介の後を付いていく。陽介は少し歩いてちょっと振り返った。
「ん?」
振り返った先のシーゼはキャロットジュースの缶を口に当てていた。
「何だ、キャロットジュース持って来てたのか?」
「えへへ、だって好きなんだモン」
シーゼは照れ隠しか小さく舌を出して、既に空になっていたらしい缶を手近なゴミ箱へ放り込んだ。

Scene-12. 神奈川工業大学A5号館第2食堂前

 神奈川工業大学には3つの学生食堂がある。第1、第2、第3と何の面白味も無い呼ばれ方をしているが、学生達は明確に区別していた。曰く“広さの第1、料理の第2、一風変わった第3食堂”と言うわけである。広さで言えば第1がダントツのトップ、第3がダントツのビリである。第2食堂は第3ほど狭くはないが、第1には遠く及ばない面積である。ある教授はコレを指して言った。“第2食堂が第1並に広かったら我が校の食糧事情も改善されるだろうに”と。
 陽介とシーゼはその第2食堂で時差昼食を取って出て来たところだった。
「美味しかったぁ」
シーゼは満足そうに笑って、陽介の後を付いてきている。もしかしてこいつは何でも美味しいと言うのではなかろうか、と陽介は漠然と思っていた。
「よう、やっと見付けたぜ」
突然背後から声を掛けられる。振り向いた先には衛藤友人が立っていた。
「よりによって時差昼食何ぞ取りおってからに、探すのに苦労したじゃねぇか」
「何か用があったのか?」
陽介は怪訝そうな顔をして言う。シーゼは知らない人間の登場に少し怯えているのか、陽介に隠れるようにして衛藤の様子を伺っている。
「お前、今日は何か付き合い悪いな………」
衛藤はそう呟いてからシーゼを指さした。シーゼが小さく身を竦ませる。
「まだ紹介してもらってないんだけどな」
陽介は「大丈夫だよ」と囁き掛けながらシーゼの頭を撫でてから言った。
「お前もしつっこいなぁ~」
「当たり前だ。こんな可愛い娘放っておけるか」
衛藤は妙にハッキリと、心做し胸を張りながら言った。
「今回ばかりは放っておいてほしいんだけどな………」
「いいじゃねぇか。別に取って喰おうって訳じゃねぇんだから」
「取って喰われてたまるかよ。とにかく場所変えるぞ」
陽介はそう言い放ち、不安な表情を浮かべているシーゼに一瞬だけ微笑むと歩き出した。シーゼはその一瞬の陽介の笑顔で安心したのか、不安げな表情を笑顔に変えて小走りに付いていく。
「お、おい! ここじゃ駄目なのかよ!」
衛藤は不平の声を上げるが、それに対して振り向いた陽介の表情を見て口を噤んだ。陽介は彼が今まで見たことのない真剣な表情を浮かべていたのだ。
「事情がちと厄介でな」
衛藤はそう言った陽介の言葉に軽く頷いて、シーゼの後から彼の後に付いていった。

Scene-12. 神奈川工業大学グラスヒル

 「記憶喪失だってぇ!?」
「声が大きい」
陽介は思わず大声を出してしまった衛藤を睨み付けた。
 校門を入って直ぐ横にある、広い芝生敷きの空間、グラスヒルである。昼食時も過ぎ、午後の授業が始まっているこの時間はもう人影はない。ちなみに彼らは3限目の講義を揃って取っていない。
「お、おう、悪い………」
衛藤は陽介の視線の迫力に押されてしどろもどろになる。そしてシーゼに視線を向けた。
 シーゼは芝生に片立て膝で座っている陽介の伸ばした方の足の太股を枕に、小さな寝息を立てている。その妙に安心しきった表情を見るだけではとても記憶喪失の少女には見えない。
「で、病院か、警察には?」
「行ってない」
陽介は衛藤の問いに即答する。衛藤は一瞬呆気に取られてから言った。
「おいおい、行ってないってなぁ………。マズイんじゃねぇか?」
「仕方ないだろうが。こいつ、病院と警察って言葉聞くと体振るわせて恐がるんだぜ。とてもじゃねぇけど連れて行けねぇよ」
「んなこと言ったって、どうすんだよ」
陽介はシーゼの頭を軽く撫でてやりながら言った。
「取り合えず、普通に病院に行けるようになるまで面倒見るつもりさ。一応ニュースには気を配ってるけどな」
陽介はそう言って、シーゼの寝顔を見つめた。頭を撫でられて気持ちいいのか、シーゼはその寝顔に微かな微笑みを浮かべている。
「しかし大変だな。衿岡の部屋だってそんなに広い訳じゃないだろ? 食費だってかさむだろうし」
「食費は俺が暫くバイクを走らせなけりゃいいだけのこった。それに部屋は全然狭く感じねぇよ」
「何で?」
怪訝な表情を返した衛藤に、陽介は苦笑いを浮かべて言った。
「見りゃ分かるだろ?」
「なるほど。一日中べったりか。だけど甘えん坊も度が過ぎるとうるさくないか?」
「もう慣れた」
陽介は衛藤の問いに笑って即答する。
「たった三日で慣れるんじゃねぇ」
衛藤は呆れたように呟く。そしてそれともなしにシーゼの寝顔を見た。
「しかし、この寝顔は何も考えちゃいねぇな」
そして苦笑いするように呟く。
 陽介はその言葉に一瞬黙り込むと、声を潜めて言った。
「それなんだ………」
「ん?」
衛藤はいつになく真剣な陽介の言葉に怪訝な表情を返す。
「衛藤、シーゼの歳、いくつくらいだと思う?」
陽介の問いに、衛藤は暫くシーゼを見ていてから答えた。
「見てくれは15、6って処じゃねぇか?」
「つまり一般常識は備わっている年頃だよな」
「何が言いたい?」
衛藤は陽介の言いたいことに全く予想が付かず、困惑した表情をする。陽介は数瞬考えてから答えた。
「あまりにも、純粋過ぎるんだ」
「そりゃ見れば分かるが?」
「そう言うレベルじゃない」
陽介は怪訝な表情で返してきた衛藤に言うと、深呼吸してから続けた。
「こいつ、何て言うか、一般常識が無いんだよ。俺の目の前でいきなり着替え出すし、夜は一緒に寝よう何て言い出す。土曜の夜は一緒にお風呂入ろう何て言われて思いっ切り困った」
衛藤は一瞬呆気に取られてから呟いた。
「純粋過ぎるったって限度ってもんがあらぁな………」
「まぁ、あまりにも無邪気で純粋で。見てて可愛いんだけどな」
そう言って陽介は、再びシーゼを見おろして微笑んだ。それを見た衛藤がニヤニヤと含み笑いをもらす。
「じゃあ、何か? お前いつも一緒に寝てるのか?」
「ああ。しかも、しがみつかれて放してもらえない」
陽介はそう言って苦笑いをもらした。
「おうおう、何て羨ましい奴だ」
衛藤は笑いながら言って立ち上がった。時間はそろそろ午後3時、4限目が始まる時間だ。
「衿岡、お前4限はどうするんだ?」
陽介は暫く考えてから言った。
「取り合えず、出る予定」
「何だそりゃ?」
衛藤の怪訝そうな表情に、陽介は寝息を立てるシーゼを指さした。
「こいつが起きたらな」
陽介はそう言って笑う。衛藤は再びニヤニヤと笑って言った。
「ま、精々誘惑に負けないようにな」
「や、喧しいっ!!」
衛藤は慌てて喚いた陽介に背を向けて立ち上がった。
「何か困ったことがあったら言ってくれや」
そう言って右手を振り、講義が行われるB5号館へと歩いて行った。

 日が落ち掛けていた。涼しくなった風が眠っているシーゼの髪を流していく。
「うにゃぁ………」
シーゼは風の涼しさに目を覚ましたのか、ノロノロと起きあがって瞼を擦った。
「やっと起きたか」
唐突に陽介の声がする。見上げると、覗き込むようにして笑っている陽介の顔があった。
「えへへ」
シーゼは少し照れたような笑みをもらす。陽介はそのシーゼを見てから芝生に立ち上がった。
「ほら、帰るぞ」
「うん!」
シーゼも勢い良く立ち上がると、歩き出した陽介の左腕にしがみつく。
 完全に日が落ちたか、周囲が真っ暗になっていった。陽介はしがみついているシーゼを少し見つめてから、おもむろに左腕を引き抜いた。
「うにゃあ!?」
驚いたシーゼが妙な悲鳴を上げるが、陽介は気にせずに、引き抜いた左腕でシーゼの肩を引き寄せた。シーゼは驚いて大きな瞳をぱちくりとさせる。しかし暫く陽介の笑顔を見つめてから、それが何を意味するのか悟ったらしい。陽介の体にもたれ掛かるようにして寄り添った。

───ま、精々誘惑に負けないようにな

一瞬、陽介の脳裏に衛藤の言葉が甦る。
「もう遅いよ………」
陽介は苦笑いをもらし、シーゼにも聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
「ねぇ陽介ぇ、何て言ったの? シーゼよく聞こえなかったぁ」
呟きが微かに聞こえたらしい。シーゼは陽介の肩にもたれ掛けていた頭を起こして不思議そうに見上げる。
「ん?」
陽介は不思議そうな表情を浮かべているシーゼを見おろして言った。
「シーゼが可愛いって、言ったんだよ」
シーゼはその言葉に一瞬驚いた様だった。
「えへへ」
しかし直ぐに甘えた声を出すと小さく笑って、陽介の体に抱き付いた。陽介はシーゼに抱き付かれて歩き難くなったことも、周囲から見られていることさえも、既に気にならなくなっていた。

 今はただ、シーゼという真っ白な少女の純粋な笑顔を、一分でも、一秒でも長く見ていたいと思うだけだった。シーゼはそんな彼の心情の変化を知ってか知らずか、陽介の腰に抱き付いたまま、ただ無邪気な笑顔を浮かべているだけだった。