第3話 発動 Psychic

Scene-1. 1999年5月20日 木曜日 陽介宅

 健康的な生活になってしまった。陽介はこの頃特にそう思う。
 大学生になって一人暮らしを始めてからはほとんど食べなかった朝食を規則正しく取り、欠席しがちだった1限目の講義にもきちんと出席する。夜は夜更かしすることもなく12時前には就寝。
 全てはこの少女のせい、と言うかお陰であった。彼の目の前で満面の笑みを浮かべて朝食のトーストを頬張っているシーゼのお陰である。
 大学が妙に気に入ったのか、朝は目覚まし時計が鳴る直前に器用に目を覚ます。夜更かしが出来ないのか、11時にもなると大きなあくびをして寝ようとせがむ。
 今までの生活を徹底的に破壊されたことだけは確かなのだが、陽介にとって全ては良い方向に進んでいると言えよう。なぜなら、彼は今の生活にそこはかとない満足感を味わっているのである。

 陽介が朝食の片付けをしている間、いつもならば嬉々としてその様子を眺めている筈のシーゼが、なぜが膨れっ面をしていた。しきりと時計を気にして、そわそわしている。シーゼは暫く陽介の様子を眺めていたが、意を決して口を開いた。
「ねぇ陽介ぇ………」
「駄目だよ」
間髪入れずに帰ってきた陽介の返事に再び膨れっ面を作る。それでも陽介は、今回は妥協せずに言い放った。
「昨日の夜から言ってるだろ? 今日は絶対に駄目。午後は講義がないから午前の講義が終わったら直ぐに帰ってくるよ。それまで我慢してな」
シーゼは膨れっ面をしたまま、不本意そうに頷いた。
木曜日の午前中は実習講義、少人数制で機械工作の基礎中の基礎を学ぶ。とてもではないが、部外者が入り込む余地などは無い。
 陽介は部屋の片隅から、いつもは持ち出さない小さなナップザック───実習用の作業着が入っている───を担いで玄関に立った。
「じゃあシーゼ、おとなしく待ってるんだよ」
と振り返って言う。シーゼは膨れっ面を元に戻すと、うつむき加減で言った。
「帰ってきたら、ずっと一緒に居てよぉ」
「分かったよ」
陽介は小さく溜息をつき、いつも一緒にいるだろうが、と内心思いながら玄関を開ける。部屋の中より幾分涼しい空気が流れ込んでくる。途端、後ろからシーゼが飛びついた。肩越しに陽介の首に腕を回して、頬を彼の頬にすり寄せる。
「いってらっしゃあい!」
シーゼは陽介の耳元で言うと、パッと離れてから両手を腰の後ろに回して組んだ姿勢で陽介を見送る。
「いってくるよ」
陽介はそれだけ言って、玄関を閉めた。シーゼは玄関が閉まるまでずっと眺めていたが、小さく溜息を付くと部屋に入っていった。

Scene-2. 神奈川工業大学

 よくよく考えたら久しぶりである。一人で自宅から出ていくのは。ここ数日は常にシーゼと一緒に大学へ行っていたため、妙な違和感を覚える。陽介は足早に実習講義が行われる校舎へと歩いていく。
 県道63号線から、学バスが正門に入って来た。陽介がちらりとバスを見やると、友人、衛藤が満員バスに潰されているのが見えた。学バスは事務棟の正面玄関の前を横切り、バス停へと進入、停止する。超満員に学生を乗せていると言うのに、急なカーブでの減速は不十分で、ブレーキもやや乱暴だった。いつもの事だが。
 陽介は学バスの降車口の近くに立ち止まり、衛藤が降りてくるのを待った。狭い車内のどこに詰め込まれていたのか、次々と生徒が降りてくる。衛藤は両替をしているのか、暫く留まっていたが、ややあって降りてきた。
「よう、衛藤」
陽介は片手を軽く上げて衛藤を呼び止めた。
「おう」
衛藤も陽介に気付いて片手を上げる。二人は学バスから早々に離れて目的の校舎へと歩き出した。
「今日はあの娘は一緒じゃないのか?」
衛藤は、この頃陽介とワンセットになりつつある少女の姿を探して言った。級友の間でも、教授陣の間でさえ既に陽介とシーゼをワンセットと見なす動きが出始めていたのだから、至極当然の反応と言えた。
「実習に連れ込めるわけないだろうが」
陽介は呆れたように言う。
「ま、そうだが。駄々こねなかったか?」
陽介はその衛藤の問いに苦笑いを返しながら答えた。
「思いっ切りこねられたよ………」
「やっぱりな」
衛藤もその陽介の苦笑いに答えるように苦笑いを返した。シーゼの陽介の対する甘え様が尋常ではないことも、既に承知済みである。衛藤は一頻り苦笑いをしてから、思い出したように言った。
「そう言えば、今日の実習って何だったっけか?」
「知らんで来とったんかい………」
陽介は呆れた様に呟くと続けた。
「今日は旋盤だよ」
「旋盤か………」
衛藤はどうでも良さそうに頷くと、直ぐに他の話題を切り出してきた。陽介は適当に相槌を打ちながら、もう一つの問題点に内心頭を抱えていた。

 明日の午前中も、連れて行けない講義なのだ………

Scene-3. 新世紀科学研究所別室

 その時、新世紀科学研究所別室は数人の研究員が仮眠を取っている以外にはほとんど機能していなかった。別室の主機能である情報収集活動も一時的に中止して、もっぱら人捜しに精を出している状態。唯一別室が機能するのは、研究員の仮眠と、バッテリーの充電ぐらいである。

 ソファーに横になって仮眠を取っていた研究員の一人が目を覚ました。頭を軽く振りながら周囲を見回す。窓に一番近い席に座っている男が、通信機のような物にバッテリーを組み込む姿が視界に飛び込んできた。
「………少し休んだ方がいいのではないですか? ハロルド博士………」
研究員は、男がここ数日の間、ろくな睡眠も取らずに歩き回っているのを知っていた。何がそうさせるのか、くすんだ金髪の男はそろそろ限界に近付きつつある筈の体に鞭打っていた。
「君は少しは休んだのか?」
ハロルド博士はからかうような口調で研究員に言った。研究員は頭を掻きながら呟くように答える。
「そりゃ、俺もほとんど寝て居ませんけど、それでもハロルド博士よりは休ませてもらっています。しかし、物には限度がありますよ」
「米軍もスイシーゼを未だ発見していない………」
ハロルド博士は不意に話題を変えて呟いた。その言葉に目を細める研究員には視線を向けずに、続ける。
「滝川博士の為にも、何としてもスイシーゼは我々で保護しなければならない」
「しかし向こうはビッグバードも動員して探している筈です。単純にエージェントの数もこっちの数倍から数十倍………勝つつもりでいるんですか?」
ハロルド博士はそんなことは百も承知とばかりに答えた。
「勝てる勝てないの問題ではない。勝たなければならないのだ」
言って、立ち上がる。センサーと、バッテリーを満載した紙袋を持って玄関へと歩き出す。
「私は出掛けるが、君はどうするね?」
研究員は少し苦笑いをして言った。
「勝たなければ、ならないでしょ?」
ハロルド博士はその答えを聞いて小さく笑った。そして言う。
「私は今まで通り海老名市を当たる。君は厚木市を頼む」
ハロルド博士はそれだけ言って、玄関を開けた。

Scene-4. 神奈川工業大学

 時間は既に正午を数分程過ぎていた。作業着が入っているナップザックを背負った陽介は、衛藤と共に校門へと歩いていた。
「そう言えば衛藤、お前、昼飯はどうするんだ?」
陽介は、いつもは金がないとか言って学食以外では決して昼食を取ろうとしない衛藤に向けていった。食堂に座れるギリギリの時間である。衛藤は陽介の問いに澄まし顔で答えた。
「今日はちょいと急いでるんで、直行で帰る」
陽介はさして感動もせずに頷くと、そのまま校門をくぐった。丁度信号が青になっている。陽介は軽く右手を挙げると言った。
「じゃあな。早く帰らないとシーゼが膨れっ面するんでね」
「保護者気取りか、さもなきゃ兄妹ってところだな」
衛藤は呆れた様に言うと、小さく手を振った。
「うるせ」
陽介は小さく毒づくと、そのまま横断歩道を渡りだした。
 衛藤は暫くその陽介を見送っていたが、相模原方面から路線バスがやって来たのに気付くとバス停へと歩き出した。ふと足を止め、再び陽介の姿を追う。陽介はローソンの裏手の道へと消えたところだった。
「恋人って感じじゃ、ないよな、あれは」
衛藤は小さく溜息を付いて呟くと、バス待ちの列の最後尾へと並んだ。

Scene-5. 陽介宅

 ドアノブに手を掛けた陽介は、ふと訝しんだ。ただいまと言いかけていた口を止める。鍵が閉まっていた。シーゼにも取り合えず的に部屋の鍵を預けてはいるのだが、一人で外に出ているのだろうか。考え辛いことだが。
 ポケットから鍵を取り出して鍵穴に入れる。かちゃりと小さな音を立てて鍵が開いた。
「ただいま」
言いながらドアを開けた。陽介の目に飛び込んできたのは、カーテンを閉め切って薄暗い部屋だった。シーゼが飛び出してくるのを予想していた陽介は、肩すかしを喰らったような感覚に捕らわれる。靴を脱いでキッチンに上がる。
「ただいま。シーゼいないのか?」
キッチンと部屋を区切る磨りガラス貼りの開き戸の向こうから返事はない。久しぶりに味わう静寂かも知れなかった。妙な違和感と共に、そこはかとない寂しさを感じる。
 考えられる要素はいくらでもあった。唐突に記憶が戻って、自分の居るべき場所へと帰っていったとも考えられる。独りぼっちになるのを人一倍恐がっていたシーゼである、誰か自分の側にいてくれる人を探しに行ったとも考えられた。それならばそれで、所詮はそんな物なのかもしれない。陽介自身が勝手に舞い上がっているだけなのかも。
 陽介は部屋までの数歩の間に考えると、小さく溜息を付いて開き戸を開けた。その途端、不思議なほどの安堵感を覚えたのに気付く。
 開き戸を開けた彼の目に飛び込んで来たのは、押し入れから引っぱり出したらしい枕を抱えて寝息を立てるシーゼの姿だった。その寝姿の直ぐ側にはキャロットジュースの缶が3つ、無造作に転がっている。
 小さく安堵の笑みを漏らした陽介の視線の先で、シーゼは枕をきつく抱きしめてる。
「陽介ぇ………」
寝言だろうか。枕に抱き付いたまま、か細い声で呟く。
「………こいつ………夢の中でまで俺に甘えてんのか………?」
陽介が呆れた様に呟くと、その気配を感じたのか、シーゼは静かに瞼を開けた。手の甲で瞼を擦りながらゆっくりと起きあがる。
「うにゃぁ………」
夢と現実の狭間で未だに意識が右往左往しているのか、暫くぼんやりとしている。が、ややあって“現実”の陽介に気付いた様で、パッと表情を輝かせると驚く程の素早い動作で陽介の体に抱き付いた。陽介は慣れた動作でシーゼの体を受けとめる。
「おかえり、陽介ぇ!!」
満面の笑みをたたえて言う。
「やけに静かだと思ったら、寝てたのか?」
「うん」
陽介の問いにシーゼは、腕を彼の首に回したまま抱き付いていた体を離して答えた。そして続ける。
「あのね、陽介が帰ってくるまで静かにしてようかなって思ったんだけど、シーゼとっても寂しくてね、気が付いたらジュース一杯飲んでたの。でもなかなか時間が過ぎないから………」
そこまで言ってシーゼは、小さく舌を出して照れ笑いをした。
「夜みたいに寝てたら時間が早く過ぎるかなって思って! だけど一人だとなかなか眠れなくて、枕にずっと抱き付いてたの。でもいつの間にか寝てたのかな? だって陽介、早く帰ってきたもん!」
今までよっぽど寂しかったのか、一気にまくしたてる。陽介は嫌な顔一つしないで全て聞いてやると、シーゼの頭を軽く撫でた。シーゼは子犬のように陽介の手に顔をすり寄せる。
「さてと………」
陽介は左腕の時計に視線を飛ばして呟いた。
「まだ食堂は何とか間に合うかな………。シーゼ、昼御飯食べに行こう」
「うん!」
元気に答えたシーゼは、陽介に抱き付いていた腕を解いて、今度は彼の腕にしがみついた。陽介はやれやれと言う表情で、荷物をやっと床におろした。

Scene-6. 神奈川工業大学正門

 神奈川工業大学の正門前、垣根に半ば隠れるようにして、その男は立っていた。黒いスーツに黒い帽子、黒いサングラス、全身黒尽くめの出で立ちは、通りすがりのサラリーマンには到底思えなかったが、ただ立っているだけで何をするでもなければ記憶に留まることもない。
 その男は黒いサングラスの内側から、軽い動作で無造作に吸っているタバコとは似つかわしくない鋭い眼光で周囲を見回していた。それでも、そぶりには全く変化を持たせずに、あくまでただの通りすがりか、待ち合わせを装う。
 正門前の歩行者用信号が青になった。待ちわびていた歩行者が歩き出していく。その歩行者の中、正門とは反対側の歩道から渡っている一組の男女に、その男の視線は吸い付けられた。
 何の変哲もない、大学生らしき男。その男の腕にしがみついて、不思議なほどに幸せな表情をしている赤毛の少女。少女は男の腕にしがみついたまま、頻りに何かを話していた。
 黒尽くめは小さな動作で内ポケットから一枚の写真を取り出した。写真には一人の少女の正面像と側面像が映し出されていた。今、目の前を通り過ぎていく少女の物と相違なかった。男は口の端を歪ませ再び内ポケットに手を入れると、今度は携帯通信機を取り出した。それに向かって言う。
「こちら、ナンバー029、スイシーゼを発見。繰り返す、スイシーゼを発見。現在位置、厚木市下荻野、神奈川工業大学。スイシーゼと共にいるのは大学生らしき男一名、強制的に拘束することも可能………」
それだけ言って、男は通信機の向こうの回答を待つ。しばらくのノイズの後、通信機の向こうからオペレーターらしき男の声が返る。
『了解、直ちに拘束して………』
オペレーターがそう言い掛けた途端、通信機の向こうでマイクをひったくる様な音が聞こえた。
『ベネウィッツだ。増援を送る。それまでスイシーゼとその男をマークしろ。事態打開は確実を要する』
「了解」
男はそう答えて通信機を切ると、正門から既に校内へと入っている二人に視線を巡らした。

Scene-7. 1999年5月21日 金曜日 陽介宅

 「えええぇぇぇーーーっ!! またあぁ!?」
翌朝、午前8時半ごろ、学生アパートの様相を呈するサンローザ厚木をけたたましい叫び声が揺り動かした。真正面から受けてしまった陽介はキンキンする耳を押さえながらシーゼの口を残った左手で押さえた。まだ叫び足りないらしいシーゼは、恨めしげな瞳を陽介に向ける。
「ひどいよ陽介ぇ~、そんなこと今まで一回も言ってなかったよぉ~!」
陽介に口を押さえられて幾分か声の音量を下げたシーゼは、今度は陽介の胴にきつく抱き付きながら訴える。
「だから、ゴメンって言ってるだろ? どうしても連れて行けない講義なんだよ」
陽介は苦笑いを返しながらシーゼの頭を撫でる。普段はそれで気持ちよさそうにするシーゼも、今回ばかりは収まらない様だが。
「そんなこと言って、ホントはシーゼが邪魔なんだぁ!」
シーゼは膨れっ面を作って訴える。
「違うってば。本当に連れて行けない講義なんだって」
「ホントぉ?」
シーゼはちょっと小首を傾げた仕草で、陽介の視線を真正面から見つめ返して言った。
「本当だよ」
シーゼは暫く無言で陽介の瞳を凝視していたが、ややあって抱き付いていた両腕を離した。そして笑って言う。
「うん、分かった! その代わり、絶対に早く帰ってきてねぇ! 約束だよぉ!」
「ああ。約束するよ」
陽介は再びシーゼの頭を撫でる。今度はシーゼも気持ちよさそうにしている。
「じゃ、行ってくるよ」
一頻りシーゼの頭を撫でた陽介は、放り出されていた───シーゼの絶叫で思わず取り落としたのだ───鞄を拾うとドアノブに手を掛けた。
「行ってらっしゃあい!!」
やはりと言うか、シーゼは陽介の後ろ姿に瞬間しがみついて言った。陽介は笑ってシーゼの背中を軽く叩くと出掛けていった。

Scene-8. 神奈川工業大学正門

 余程に記憶力がいいか、余程に暇を持て余していないかでないと覚えていないであろうが、昨日の黒尽くめの男は再び神奈川工業大学の正門の脇に立っていた。その目の前の横断歩道を、昨日は少女と連れだっていた男が通り過ぎようとしている。
 男は内ポケットから通信機を取り出して呟くように言う。
「こちら、ナンバー029。ターゲットの男を神奈川工業大学正門にて発見。スイシーゼとは一緒ではない模様」
『こちらでも確認している、そのまま監視を続けろ。県道63号線の封鎖の準備はまだ整っていない』
それに対する回答は直ちに成された。
「了解」
男は短く答えると、目の前を通り過ぎた青年から一瞬目をそらして、県道63号線を見やった。黒塗りの車が通り過ぎていく。
「ナンバー029、ターゲットの監視を続行します」
『ターゲット、衿岡陽介の自宅には既にマークが成されている。スイシーゼは恐らく衿岡宅に残っているだろう』
「捕獲するには好機ではないですか?」
男は通信機の向こうで命令を飛ばしているであろう男に向けて言った。
『スイシーゼの“力”が目覚めていないとも限らない。衿岡陽介を捕獲し、こちらのカードとするまでは監視に留める』
「了解しました」
男が納得すると、通信機の向こう側の男はこれ以上何も言う事がないのか、それっきり会話を途絶えさせてしまう。男は通信機を内ポケットにしまい込むと、既に校内へと入って行っているターゲット、陽介に視線を飛ばした。

Scene-9. 陽介宅

 目覚まし時計の音がけたたましく鳴った。デジタルの表示が12時15分を指している。それは、昨日に陽介が帰ってきた時間であった。
 シーゼは飛び起きると周囲を伺う。まだ陽介は帰ってきていない様だった。午前の講義が終わるのは正確には12時40分、帰ってこれる時間ではないのだが、シーゼはそんなことを知るよしもない。
「まだ帰って来てないなぁ。早く帰って来てって約束したのにぃ………」
シーゼは不平の声を小さく上げると、何するでもなく部屋の真ん中に座り込んだ。暫く静かにしている。
 次第に絶えられなくなったのか、再び時計を見た。12時18分。ろくに進んでいないが、今のシーゼにとっては180秒も長く感じる。
「早く帰ってこないかなぁ~」
呟く。無論、扉が開く気配はない。
「うにゅう~」
意味不明の呻きをあげて、膨れっ面を作る。そこで暫く時を待った。落ち着きがないと言ってしまえばそれまでだが、再びシーゼが行動を起こしたのはキッカリ3分後だった。
「ジュース、飲んでよぉ」
シーゼは呟いて四つん這いで台所へと這っていく。冷蔵庫を開ける。殆どシーゼ専用になっている、キャロットジュースしか入っていない棚に迷わず手を伸ばす。
 残り少なくなっていた。ただでさえシーゼが好んで飲んでいるのに加え、昨日今日は寂しさを紛らわすために飲んでいたために消費量が飛躍的に上がっている。ざっと見たところ、後7、8本か。
 シーゼは缶の端を前歯でくわえて、再び四つん這いで部屋の中央まで戻る。慣れた手つきでプルタブを開けて、小さく口を付ける。そして呟いた。
「早く帰ってこないかなぁ~」
筋金入りの寂しがり屋なシーゼであった。

Scene-10. 神奈川工業大学正門

 午前の講義が終わった学生が出て来ていた。ある者は学食を最初から諦めてコンビニへ、ある者は既に午後の講義がないのかバス停に並び、またある者は自分の部屋へと帰っていく。
 最後のパターンに当たる陽介は、膨れっ面を作って待っているであろう事が想像に難くないシーゼを思い浮かべながら信号機の脇に立った。運悪く、信号は赤に変わったばかりだった。

 やはり、正門の物陰から彼を監視する男が居た。男は通信機を取り出して報告をする。
「こちらナンバー029、衿岡陽介は県道63号線、横断歩道に停止中」
通信機の向こうの声は数瞬遅れた。だが、暫くの後力強く帰ってくる。
『拘束しろ! 県道63号線及び大学内は押さえる!』
「了解」
男は通信機を内ポケットしまうと、横断歩道に向けて歩き出した。

 信号機の表示を前にして、陽介はいぶかしんだ。相模原方面へと向かう車も、伊勢原方面へ向かう車も、全く同時に途絶えてしまった。こんな事はそうそうない。
「なんだよ、渡っちまうかな」
そう呟いた時、不意に右肩を叩かれて陽介は振り返った。途端、思わず後ずさる。190センチメートルはあるのではないかという長身、黒いスーツに黒いサングラス姿の男が異常なほどに接近して立っていたのだ。
「な、なんですか?」
陽介は些か圧倒されながら、サングラスに隠れて見えない男の視線を見返した。男は微動だにせずに言う。
「衿岡陽介、だな?」
男は困惑する陽介の答えを待たずに、再び口を開いた。
「スイシーゼを、返してもらいたい」
「スイシーゼ?」
陽介は瞬時に反応した。“スイシーゼ”という単語は、シーゼが唯一覚えていた物だ。
「貴様の保護している女だ。知らないとは言わせない」
男は威圧する声音で言う。陽介はその声音に無性に腹立たしい物を感じつつも、本能的にかなわない相手であることを感じたのか、反論を飲み込む。
「あんた、何なんだ?」
「貴様は知らなくていいことだ。スイシーゼを返してもらう」
男は無感情な言い方で言い放つ。
「あいつが、お前の物だってのか? お前は何なんだよ!?」
次第に苛立っていた陽介は詰問口調で食って掛かる。だが男はやはり表情一つ変えずに言った。
「私はある組織の者だ。スイシーゼという個体はその組織で作られた実験体で、未完成品のために非常に不安定な状態にあり、危険なのだ。だから返してもらう。それ以上は言う必要はない」
「何が危険だってんだよ!?」
「貴様が知る必要はない」
男の回答はやはり無感情な物だった。そのまま押し黙る。
「仮にあいつをその組織とやらに渡したら、あいつはどうなるんだ?」
男は陽介のその問いに答えなかった。
 暫く、陽介は男のサングラスを睨み付けていた。そして小さく息を吸って言い放つ。
「断る」
「何だと?」
男の表情に初めて変化が現れた。眉毛を小さくつり上げて、口調に力が帯びる。だが陽介は臆することなく言い返した。
「俺が納得いく説明を聞くまであいつは俺が守る。だいたい何が実験体だ! 何が危険だってんだ!? ふざけんじゃねぇ!!」
陽介はそう言い放ってきびすを返した。だが、道路を渡ろうとする彼の肩を、男は強く掴んで引き寄せた。
「何だよ!?」
無理矢理振り向かされた陽介はむきになって叫ぶ。その途端、息が詰まった。男の右の拳が鳩尾にめり込んだのだ。
「ジャップに選択権は与えられていないのだよ」
男は鳩尾を押さえてうずくまった陽介に言い放つ。だが陽介もせき込みながらも言い返す。
「………毛唐が………何言ってやがる………!」
その言葉を聞いた途端、男は容赦なく右足を蹴り込んでいた。陽介の体が車道に転がる。
 バス停の方から悲鳴が聞こえてきた。バス待ちの列にいた女が蹴り飛ばされた陽介を直視したのだ。
 男は無言で、右手で何かのサインを送る。その途端、県道63号線の相模原方面から黒塗りのリムジンが一台走り込んできた。バス停の前で強引に止まると、中から黒いスーツ姿の男達が3人、飛び出してくる。
 男達は素早く懐に手を入れると、拳銃を取り出した。それを空に向けて威嚇射撃する。効果は絶大だった。テロリストか過激派としか思えないような男達が拳銃を打ったのだ。バス停に並んでいた生徒たちは口々に悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。
 男はその様子には目もくれずに、倒れている陽介の胸ぐらを掴んで強引に引き起こした。そして再び言う。
「ジャップに選択権は与えられていない、そう言った筈だ。黄色い猿は物覚えが悪いようだな」
男は言い放って、口の端を歪ませた。

Scene-11. 陽介宅

 シーゼはそわそわと時計と扉に視線を飛ばしていた。時間は12時55分。とっくに帰って来てもいい頃である。
「ぶぅ~、陽介遅いよぉ~」
シーゼは部屋の真ん中に転がって、バタバタと手足を振り回して駄々をこねる。無論、聞いてくれる陽介は側にはいない。
 それよりも気になるのは、つい数分前から感じている妙な焦燥だった。心の中で何かが“ここにいてはいけない”と訴え掛けるように、シーゼの心は外へと向いていく。何かは分からないが、胸騒ぎも収まらない。それが寂しさから来る物なのか、それとも全く別物なのかはシーゼ本人には分からなかった。
 次第に焦燥を自制しきれなくなったシーゼは、勢い良く立ち上がった。
「よぉ~し、シーゼ迎えに行っちゃうぞぉ!!」
シーゼは言葉に出来ない胸の内の苛立ちをごまかす様に叫んで、扉を思いっきり開け放った。

Scene-12. 神奈川工業大学正門

 黒いスーツの男は陽介を片腕で持ち上げた。鳩尾の痛みと蹴り上げられた脇腹の痛みが、陽介の意識を朦朧とさせる。
 その時、男のスーツの裏側から小さな電子音が聞こえた。男は陽介の体を路上に放ると、内ポケットに腕を入れ、通信機を取り出す。
「こちら、ナンバー029。現在、ターゲット、衿岡陽介を………」
男が全てを言い終わる前に、通信機の向こう側から声が聞こえた。
『スイシーゼが動いた』
その言葉に男の眉が上がる。
『予測進路は平時の通学路、60秒後には県道に現れる。捕獲しろ』
「了解」
男はそれだけ答えて通信機をしまい込んだ。そして口の端を歪ませて、路上に倒れたままの陽介に言い放つ。
「どうやら、貴様の部屋まで出向く必要もなくなった様だ」
その言葉に、未だ朦朧としていた陽介の意識は一気に現実に引き戻された。目を見開いて声を上げる。
「まさか、シーゼが!?」
男は再び陽介の胸ぐらをつかみあげる。
「その通りだ、ジャップ」
陽介は歯がみした。彼の本能は、直感的に結論を出している。
―――シーゼをこいつらに渡しちゃ駄目だ!!
だが、今の陽介の力では到底抗う事は出来なかった。悔しさに唇を噛む。

 だが、運命は彼に味方しなかった。対岸の歩道に、赤毛の少女の姿が見えたのだ。
「あぁ~!! 陽介見付けたぁ~!!」
シーゼは正門前にいる陽介を素早く見付けて叫んだ。状況が把握しきれないのか、それよりも陽介を見付けた嬉しさが先に立ってしまったのか、満面の笑みを浮かべて走り寄ろうとする。
 その瞬間、陽介は叫んだ。
「来るなシーゼ!! 逃げろぉ!!」
それは今の陽介に出来る精一杯だった。シーゼは驚いて立ち止まると、訝しげに返す。
「どうして、陽介ぇ?」
陽介は苛立たしささえ覚えながら再び叫ぶ。
「いいから早く離れろ!! 逃げるんだ!!」
「う、うん………」
シーゼは納得出来ないまま、渋々走り去ろうと振り向いた。何から逃げればいいのか分からないのだが。
 しかし、そのシーゼの背中に声が届く。
「止まれ、BC-H204スイシーゼ!!」
「………えっ!?」
シーゼは驚いて立ち止まる。今、陽介とは別の人間が呼んだ。自分さえ知らなかった、自分の名前を。シーゼはゆっくりと振り返った。
「………スイシーゼって………シーゼの事………?」
呟くように問う。
そのシーゼの姿に、男は口の端を歪ませた。
「そうだスイシーゼ。私はお前の事を知っている。さぁ来るんだ」
男は、記憶喪失のシーゼの最も欲しい物を瞬時に看破したのか、語りかける。
「でも………」
シーゼは困惑した表情を、男に掴み上げられている陽介に向けた。掴まれている衿で首が締まっているのか、苦しげな表情でシーゼに視線を向けている。
 男は自分の事を知っていると言った。シーゼが今一番知りたいのは自分自身のことだ。だが、いつも自分に優しかった陽介は逃げろと言う。
 シーゼの頭の中が混乱する。どうしていいのか見当が付かなかった。
 男はシーゼの様子に感づいたか、スーツの内側から拳銃を取り出して、その銃口を陽介の額に押し当てた。そして言う。
「こっちに来るんだ、スイシーゼ。でなければ、こいつは死ぬことになる。分かるな? お前が大人しくこっちに来れば、お前自身の事も分かり、この男も助けられる」
男は決心しかねているシーゼの心に揺さぶりを掛ける。シーゼの心が一瞬揺らいだ。右足が少し前へ出る。その途端、捕まれていた胸倉を強引に引き離した陽介は叫んだ。
「逃げろって言ってるだろうが! 言う事聞かねぇと甘えさせてやらねぇぞ!!」
「うん!!」
その瞬間、シーゼの心は決まった。さっと振り返って走り出す。
「ジャップ!!」
背後から男の叫び声が聞こえた。と同時に、鈍い音が響く。

 その瞬間、シーゼの足が凍り付いた。慌てて、再び男と陽介に視線を飛ばす。息を呑んだ。男の足下に陽介の体が崩れ落ちている。口の端から血を流している陽介は、それでもシーゼに叫んだ。
「………に………げろ………」
だがそれは実際には呟きにしかならなかった。男は、陽介の顔の横のアスファルトに立ち、再び言う。

 「事態が分かったか、スイシーゼ。こっちに来るんだ。今度拒否すれば、お前の大切な人は永遠に帰って来ない」
男は拳銃を倒れている陽介に向ける。
「………大切な人………」
しかし、シーゼの視線は既に男を写してはいなかった。ただ、倒れている陽介に注がれたまま微動だにしない。
「………陽介………大切な人………」
そう呟いた時、シーゼの脳裏に何かがきらめいた。それは忘れていた記憶の一片が、突然に甦る。

 誰だか分からない、男の声が聞こえてくる。
『………この力はな、スイシーゼ。大切な人を守る為にあるんだ』
『大切な人………?』
男の声に続いて、少女の、いや子供の声が聞こえる。
『ああ、そうだ。スイシーゼにとって大切な人だよ』
『お父さんやお姉ちゃんやおじさんの事?』
『そうだよ。そしてスイシーゼがいつか出会う、一生ついていきたいと思う特別な人のことだ』
『じゃあ、スイシーゼの力で大切な人を守ればいいんだね?』
『そうだ。スイシーゼとお姉ちゃんの力はその為にあるんだぞ。分かったな?』
『うん!』

 シーゼの視線が地面に落ちた。体が覚えている。誰かが教えてくれた“大切な人を守る為の力”を。
「………守る………大切な人を………守る………シーゼの力で………!」
静かに呟く。その瞬間、体の中で何かが弾けた。急激に体温が上がった様に体が熱い、だが動悸は静かに落ち着いていく。体の中で波がうねり、熱い何かが溢れだした。

 風が巻き起こった。シーゼが立っている場所を中心に、竜巻のように巻き上がる風が唸りを上げる。風は時折火花放電を発しながら、青白い輝きを増していった。

Scene-13. 海老名駅前ロータリー

 海老名駅の前、バスとタクシーのロータリーを前に歩いていた男が突然立ち止まった。右手に持っている何かの通信機のような物がけたたましい音を発している。男は勢い良く暴れている通信機の指針を見て叫んだ。
「………これはスイシーゼの反応!? こんなに強力に反応するとは近いか!?」
叫びと同時に、懐から別の音が聞こえる。男は慌てて懐に手を入れて、携帯電話を取り出した。
「ハロルドだ! どうした!?」
周囲の視線もはばからずに受話器に叫ぶ。
『センサーを振り切る程の反応が出ています!! スイシーゼです!!』
「落ち着け! 場所はどこだ!?」
『厚木市です!! 厚木市の下荻野!!』
「全員に連絡して厚木市に集中投入する!! 私も直ぐに向かうぞ!!」
『急いで下さい! この反応は異常です!!』
電話の先の声もかなりの狼狽ぶりで叫んでいた。そのまま回線を切った音が聞こえる。
「それだけの距離があってこれか!?」
ハロルド博士は未だ暴れ続ける指針を睨み付けながら叫んだ。携帯電話を懐に戻すと駆け出す。近くに止めてあった車に駆け乗り、ろくな確認もせずにホイルスピンをかけて急発進した。

Scene-14. 神奈川工業大学正門

 黒いスーツの男も、陽介も、それらを取り囲んでいる3人の男達も、その様子を無言で見つめることしか出来なかった。シーゼの体を波打つ様な青白い輝きが包み込んで、渦を巻いている。
「………力が………目覚めたのか………?」
男が掠れた声で言う。陽介は呆然とその様を見つめながら、しかし男の呟きを聞き逃してはいなかった。
「力………? シーゼの?」
陽介がそう呟いた途端、シーゼを包んでいた渦が輝きと共に消失する。と同時に、地面に落ちていた視線が正面の男、陽介を殴り倒した男に向けられた。その顔はいつものシーゼからは想像も出来ない程に無表情だった。

 シーゼは軽く膝を折って屈んだ。瞬間、足下で光が渦を巻く。その光に押し上げられたかの様に、シーゼの体が不自然に飛び上がった。車道を飛び越えるように舞い上がったシーゼは、恐ろしい速度を保ちつつ空中で体を丸めて回転した。
 男は慌てて宙に向けて銃を乱射する。だがシーゼは全く意に介さずに、そのままの勢いで男の両肩を両足で蹴り付けた。
 轟音を上げて男の体がアスファルトに叩き付けられた。肩の骨が踏み抜かれて筋肉ごと砕け散る。血が吹き出すが、不思議と肩を踏み抜いているシーゼの足には全く掛かっていない。
 シーゼは着地の勢いを相殺するために曲げていた膝を、機械的な動作で伸ばした。その瞬間、銃声が響いた。離れて取り囲んでいた男の一人がシーゼに向けて銃を撃ったのだ。だが、銃弾はシーゼの体に触れることもなく、何かに強引に軌道をねじ曲げられて飛んでいく。
 動きを止めていたシーゼが、銃声の元へ体ごと振り向いた。銃弾を真正面から浴びるのだが、やはり軌道をねじ曲げられる。
 今まで軌道をねじ曲げられるだけだった銃弾が、シーゼの目の前で砕け散る様になる。その途端、シーゼは走り出した。銃を構えている男に向けて、腰を屈めて加速する。瞬間、シーゼの加速が爆発的に大きななった。目で追いきれないほどの速度に達した勢いそのままで、右腕を男の腹部に叩き込む。男の体が不自然な程に折れ曲がって後方のガードレールに叩き付けられる。
 今まで男が立っていた場所に急停止したシーゼは、敵と認識した残る男の一人へと向き直る。次の標的にされた事に気付いた男は、後ずさりながら銃を乱射する。だが、既に当然の事のように、銃弾はシーゼの目の前で砕け散る。
 シーゼは静かに右腕を上げていく。腕をまっすぐ前に伸ばして、掌を男に向けて開く。その瞬間、シーゼの掌に光が凝縮した。凝縮された光が男に向かって発射される。
 男に回避する余裕はなかった。大気を振るわす大爆発の中から、かつて人であった焦げた肉の塊が飛び出し、アスファルトに当たって砕ける。
 たった一人残された男は恐慌状態に陥った。ひきつった叫びを上げてリムジンに駆けていく。
 だが、シーゼは敵を見逃さなかった。再び軽く腰を屈めて、足下に光の渦を呼ぶ。そして浮かび上がった。
 シーゼの体は空中で弧を描きつつ男の頭上を飛び越える。そして着地点にある防弾仕様のリムジンのエンジンルームを踏み抜く。引火したガソリンが大爆発を起こした。だが、その爆発の炎さえもシーゼの体には埃一つ付けることは出来なかった。
 炎の中でシーゼは呆然と立ち尽くしている男に向かって歩き出す。全くの無表情で近付いてくる少女の影に、男は恐怖の余り地面にへたり込む。だがシーゼは全く歩調変えずに男に近付いていく。男の顔が恐怖に歪んだ。
 シーゼの足が止まった。右腕が再びゆっくりと上がっていく。男は何が来るのか悟ったのか、恥も外聞もなく泣き喚きながら後ずさっていく。

 「やめるんだシーゼ!!」
突然、陽介の叫び声が響いた。その瞬間にシーゼの動きが止まる。
 それを逃げる唯一のチャンスと見たか、男は県道を相模原に向けて逃げ去っていく。おそらくそちらにリムジンが未だ待機しているのだろう。
 動きを止めたシーゼは男を追うことはせずに、視線を叫んだ陽介に静かに向けていく。視線が陽介を確認した瞬間、無表情な顔に感情が戻ってきた様だった。両の瞳に涙が溢れ出す。泣き出す直前にシーゼは突然走り出して、未だ地面に座り込んでいる陽介に抱き付いた。と同時に、火がついたように泣き出した。
 陽介は余りの事態の異常さに掛けてやる言葉を見付けられないまま、彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくるシーゼの髪を撫でてやることしか出来なかった。

Scene-15. 厚木市上空

 その時、ベネウィッツは上空から全てを確認していた。ダブルローター式のヘリの移動司令室の中で、ビッグバードから衛星回線を通して送られる実写映像である。
 彼が送り込んだエージェントは、衿岡陽介という現在のスイシーゼに対して最高のカードとなるはずだった要因を得てなお、捕獲に失敗した。それも、考えうる限り最悪の結末を迎えて。未だ目覚めていなかったスイシーゼの力は、彼らが目覚めさせてしまったも同然なのである。
 ベネウィッツは衛星通信のモニターを切って、シートに腰を埋めた。大きく深呼吸する。
「………やっかいな事になったな………」
呟く。スイシーゼの力が一時的な物であればよいが、完全に呼び覚まされていたとしたら、事態は彼の考えうる限り最悪である。
 ベネウィッツの座るシートの後方、3メートル程離れた壁に人影があった。小柄で線の細い物腰、女か。不必要なほどに鋭い瞳をベネウィッツに向ける、赤毛のショートヘアの女。
 女は蔑むような視線でベネウィッツを見やると言った。
「手詰まりかい………?」
「策がないわけではない」
ベネウィッツはいささかムッとしながらも、即答した。シートごと振り返って女を睨み付ける。だが、女はその視線を意に介さずに続けた。
「力が覚醒した以上、ただの人間なんぞを何人つぎ込もうが無駄だ」
女はそう言った後、小さく笑った。そして言い放つ。
「私が出てやろうか? あの女には恨みがある」
ベネウィッツは憤慨して、アームレストを叩いた。そして喚くように答える。
「その必要はない! 試験配備中の貴様のプロトタイプを回す! BC-Aシリーズの実戦データの収集にはいい機会だ!」
ベネウィッツは叫んで立ち上がると、大きく足音を響かせながら司令室から出ていった。その後ろ姿に女は小さく吐き捨てるように言った。
「しばらくはお手並み拝見といこうか………無駄だとは思うがね………」

Scene-16. 厚木市下荻野

 泣き疲れたのか、シーゼは陽介の背中で静かにしていた。陽介達はガソリンに引火したリムジンの爆発の混乱に乗じて逃げるように───事実逃げたのだが───その場を後にした。しばらく泣き続けていたシーゼは脱力して立ち上がることもままならなかったため、頬と腹部の痛みに耐えながら陽介が背負って歩いていた。脱力しているせいか、服ごしに伝わるシーゼの体はいつも以上に柔らかく、つい数刻前に目の前で起こった異常な姿とはどうしても結びつかなかった。
 陽介はシーゼを背負ったまま、サンローザ厚木のアパート群の間を歩いていく。その背からシーゼはか細い声で呟いた。
「………陽介ぇ………」
数瞬の沈黙。陽介は振り返らずに歩いたまま言った。
「なに?」
シーゼの答えはしばらく返って来なかった。だが、陽介は静かに待っている。やがて、シーゼは意を決したように呟いた。
「………シーゼって………何なのかなぁ………分からないよ………」
そう呟いて、再び押し黙る。だが、陽介の返答はなかった。
 静かな時が続いた。再びシーゼは口を開く。
「………人間じゃ、ないのかなぁ………人間ってあんな力持ってないよね………」
そう続けたシーゼは瞼を閉じる。その瞼の間から涙が一粒こぼれ落ちた。陽介はシーゼの体が小刻みに震えるのを感じながら言った。
「ごめんな、シーゼ………。俺、シーゼに何て言ったらいいのか、全然分からないんだ………」
「うん………」
陽介はしばらく時を置いて心を落ち着かせる。そして続けた。
「だけどシーゼは………俺を助けてくれたんだよな………。あの力でさ………」
「誰かが教えてくれたの………」
「………?」
シーゼの突然の言葉に、陽介は一瞬困惑した。だが、その言葉の意味は直ぐに分かった。
「記憶が戻ったのか………?」
「分かんない………」
シーゼは陽介の問いに直ぐに答えた。そして一呼吸置いて続ける。
「だけど………誰かが言ってたの………。シーゼの力は………大切な人を守る為の力なんだって………」
「そっか………。守る為の力か………」
陽介はシーゼの言葉に軽く相槌をつきながら答えた。シーゼはなおも続ける。
「でも………でも………他のこと全然分かんないよ………」

 「だけど、俺は一つだけ分かったことがあるよ」
陽介は、シーゼの腕がきつく抱き付いてくるのを感じつつ言った。シーゼはその言葉にそっと目を開ける。
「………シーゼの事………?」
「ああ!」
陽介は力強く答えた。首だけ振り向いて、肩ごしに覗き込むシーゼの視線を捉える。
「シーゼの本当の名前さ。“スイシーゼ”って言葉、シーゼの名前だったんだな」
シーゼは驚いて目を見開く。そして呆然と呟いた。
「シーゼの………本当の名前………?」
「ああ。よかったじゃないか。本当の名前が分かってさ。これで一つ自分の事を知る手がかりが見付かったんだ」
シーゼは陽介のその言葉に、しばらく呆然としていた。だが、ややあってから呟く。
「………陽介って………優しいんだね………」
「あ? そうか?」
シーゼは陽介に掴まっている腕にそっと力を込めると言った。
「うん………。大好きだよ………陽介………」
シーゼはそう言って目を閉じる。頬を軽く陽介の頬に押し当てた。陽介は押しつけられたシーゼの頬に軽く口づけした。

 彼はこの時、確信していた。このスイシーゼという少女に自分がしてやれることは、少女が純粋に甘えることが出来る人間でいることだけなのだと。