第5話『スイシーゼ ~ Innocent Angel II』

Scene-1. 1999年5月29日 土曜日 陽介宅

 こんなに簡単に信用して良かったのかと、今更になって思う。このハロルド・アンダーソンという男は余りにも絶妙のタイミングで現れた。どういう訳か獣人が行動を止め、スイシーゼの力がその獣人を吹き飛ばした直後。いくらスイシーゼがこの男の存在を警戒していないからとは言っても、である。
 陽介は無言で自宅まで男を案内すると、扉の鍵を閉めた。
「まずは、ハロルドさんでしたっけ? 貴方の素性を聞かせて下さいよ」
陽介は買ってきた食材を冷蔵庫に放り込みながら言った。ハロルド博士は部屋の中央に立って答える。
「陽介君は知らないと思うが、新世紀科学研究所という有志による研究会があってな、私はそこの所長をしている。滝川博士には学生時代に一度お会いして、それがきっかけで知り合った」
「滝川博士?」
陽介は聞き慣れない名前に眉をしかめた。その後ろで陽介の様子を見ていたスイシーゼが不思議そうな表情をハロルド博士に返す。
「ああ、知らなくて当然だな。滝川俊博士、そのスイシーゼの父親だ」
「シーゼのお父さん………」
スイシーゼはそう呟いて、立ち上がった陽介のワイシャツを掴んだ。その手が心做しか震えている。
「どうして、その滝川博士が直接来ないんです?」
父親ならそれが当然と言うように陽介は食って掛かった。
「彼は命を狙われている」
だが、ハロルド博士は一言だけ言って陽介の視線を射抜いた。
「誰に?」
「あの男達に、だ」
ハロルド博士は間髪入れずに答える。
 陽介は大きく深呼吸して言った。
「あいつらって、何者なんです?」
陽介の問いにしかし、ハロルド博士は暫く答えなかった。そして小さく深呼吸してから言う。
「陽介君には、悪いが話せない」
「どうして?」
怪訝な表情を返した陽介に、ハロルド博士は端的に答えた。
「危険、だからだ」
「危険………?」
「そうだ。今までのことでも解っていると思うが、相手は手段を選ばない。奴等のことを話せば今度は陽介君も狙われる」
ハロルド博士はそこまで言って言葉を切った。
 陽介の視線を正面から暫く見つめて、再び口を開く。
「陽介君、スイシーゼを今まで守ってくれたことには感謝する。だが、これ以上は関わらない方がいい。スイシーゼを私に預けて、今まで通りの生活に戻った方が君の安全のためだ」
陽介はその言葉に暫し唖然としてから、震える声で呟いた。
「俺にシーゼの事を忘れろって、そういうことですか?」
「忘れろとは言わないが、これ以上関わり合いにならない方がいい」
「いやっ!!」
陽介が何か言い返すよりも先に、スイシーゼが叫んでいた。陽介の体に強く抱きつく。
「いやいやっ!! シーゼ、陽介と離れるなんて絶対いやっ!!」
スイシーゼは陽介の胸に顔を埋めて泣き叫んだ。そのスイシーゼの肩をハロルド博士が優しく掴む。
「我侭を言ってはいけない、スイシーゼ。君も解っているだろう? 陽介君がこのまま君と一緒にいると、彼の命が危ないんだよ」
そして諭すように言う。だがスイシーゼは聞かなかった。
「いやっ!! 悪い奴はシーゼがやっつけるもんっ!! 離れるのはいやっ!!」
そう泣き叫んでから、涙に濡れた瞳で見上げる。陽介はそのスイシーゼの瞳を見つめた。
「陽介ぇ………」
哀願する瞳で見つめる。
 陽介は暫くその瞳を見つめてから、おもむろにスイシーゼの体を強く抱きしめた。そして言う。
「大丈夫だよ。約束しただろ? シーゼ」
「え………?」
スイシーゼは何の事なのか解らずに、涙を浮かべたまま怪訝な表情を返す。
「忘れちゃったのか? ずっと一緒にいるよ、シーゼを守るって、約束したじゃないか?」
「うん!」
シーゼは涙を手の甲で拭い去ると笑みを浮かべる。しかしハロルド博士は苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
「しかしな、陽介君………」
陽介は何かを言い出そうとしたハロルド博士に笑い掛けて、彼の言葉を遮るように言った。
「今は、俺を連れていった方が得策ですよ。そうしないとシーゼは素直に付いていってはくれないでしょうから」
「スイシーゼの甘えん坊が勝ったという事か。人見知りすると滝川博士には聞いていたのだがな………」
ハロルド博士は呆れた様に呟くと、陽介の肩を叩いた。
「分かった。では私からお願いすることにしよう。陽介君、暫くスイシーゼの側にいてやってくれないか?」
「喜んで」
陽介は即答して、笑い掛けているスイシーゼの額に軽く口付けした。

Scene-2. 厚木基地

 時を同じくして、ベネウィッツはエージェントから送られてきた報告書を前に苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
「………活動限界が3分足らずだと………? これでは一個の独立兵器として役に立たないではないか」
ベネウィッツは報告書を乱暴に机に放って荒々しく背もたれに身を埋めた。
「お前達の技術力の限界かね………」
窓に寄り掛かっていた女が言う。その言葉には蔑みが含まれていた。
「どういうことなんだ? 戦闘行動に入った途端に活動限界が縮んだぞ」
ベネウィッツは憮然としながら、女に聞かざるを得ない現実に苛立ちを覚える。
 女はそのベネウィッツの様子を心底楽しんでいるのか、口の端に微かな笑みを浮かべて答えた。
「脳内蛋白の異常消費による機能障害さ………」
「なに………?」
「わからないかい? バイオニックウェポンの戦闘能力の基本にあるα波は脳内蛋白を異常消費するのさ。ましてや脳味噌の足りない猿を使ったぐらいじゃ活動限界はたかが知れてる」
「しかし、BC-H204の活動限界は報告されていないぞ」
女はその返答にくっくっと笑いながら答えた。
「試作品と完成品を比べるなんて馬鹿な話しさ。204に組み込まれているG(ゲー)型調整因子の性能は試作品とは比べ物にならない。まぁ、暴走状態が半日続く様なことにならない限りは活動限界なんて来ないさ」
ベネウィッツは憮然とした表情は崩さずに言った。
「活動限界が短いバイオニックウェポンでは単体投入している限り勝ち目はないと言う事か………」
「少なくとも、α波能力に関してはね」
その女の返答に、ベネウィッツは引っかかる物を感じて呟くように言った。
「勝算がある、と?」
女は数瞬の間をおいて答えた。
「204はA(アー)からG(ゲー)までの調整因子を計画的に、且つ最高の状態に成るように組み込まれた完成体。だが、その為に犠牲にした物がある。あくまで人間としての体裁を整えておくために骨格強化と筋力強化は意図的に効果を押さえている」
「つまり………、204の骨格、筋力を凌駕するバイオニックウェポンならば、α波で勝てなくとも勝機はある、か?」
「反応速度と知覚能力、思考能力も必要だね」
「無茶を言うな!!」
ベネウィッツは憤怒の形相で机を叩いた。
「それではG(ゲー)型調整因子を除く殆ど全ての調整因子で204を越えなければならないではないか!!」
女は面白そうにベネウィッツの憤怒の表情を眺めて言った。
「所詮、今のバイオニックウェポンでは“私達”には勝てないと言うことさ。しかも、アブソリュートαフィールドを展開した私達にはミサイルでも持ってこない限り傷をつけることも出来ない」
 女はそこまで言うと、不意に寄り掛かっていた体を起こした。そして部屋の扉に向かって歩き出す。
「何処に行くつもりだ!?」
ベネウィッツはその女に荒々しく怒声を掛ける。だが女は気にする風でもなく、短く答えた。
「挨拶してくるだけさ」
そして扉を閉める。
 後に残されたベネウィッツは深くため息を付いて吐き捨てた。
「………たかが人形風情が………」

Scene-3. 陽介宅

 陽介は大きめの鞄に生活必需品、着替えなどを詰め込んでいた。自分の着替えと、急遽買い揃えたスイシーゼの着替え。入れられるだけ詰め込んでいく。
「陽介君、スイシーゼが始めに着ていた服は取ってあるかな?」
ハロルド博士は陽介を見ながら言う。
「これですね?」
陽介は押し入れから出したライダースーツの様な物を指さして言う。初めて会った時にスイシーゼが着ていた不思議な服だ。
「なんなんです? コレ」
「私も詳しくは聞いていないのだが、大切な物らしい」
陽介はその言葉を聞くと、鞄にその服と、スイシーゼが着けていたアーマーを押し込んでいく。程なくして鞄は一杯になった。
「取り合えずこれだけでいいでしょう」
陽介はそう言って、鞄のチャックを閉める。そして鞄を肩に掛けると立ち上がった。その陽介の左腕にスイシーゼがしがみつく。
「準備完了です」
「よし、では行こう」
スイシーゼがしがみつくのも準備なのだろうか、と漠然と考えて苦笑しながらハロルド博士は答えた。

Scene-4. ローソン駐車場

 陽介達はハロルド博士に連れられてローソンの駐車場に来た。そこに止めてある車にキーを差し込みながら、ハロルド博士は周囲を伺う。それを見ていた陽介は澄まして、左腕に抱き付いているスイシーゼに言った。
「誰かに見られてるか?」
「………ん?」
スイシーゼは数瞬目を閉じて辺りに注意を飛ばす。そして頭を振って言った。
「ううん、見られてないよ。でも、上………」
そう言って、小さく上空を指さす。沈み掛けた太陽が照らす夕日の空には雲が点々と浮かぶ以外なにも見えない。
「上………? 何だい?」
陽介は訝しげな顔をして空を睨み付けた。だがやはり何も見えない。
ハロルド博士も空を見上げながら、そして言った。
「スイシーゼが見られていることを感じとれるのだとすれば………偵察衛星………ビッグバードか………? 御丁寧な………」
ハロルド博士は言うと、構わずに車のドアを開ける。陽介は後部座席に乗り込みながら言った。
「上から見張られているとしたら、何処に逃げたって知られてるってことでしょ? どうやって隠れるんです?」
「こういう事態も想定して行動する物なのさ、我々のような団体はな」
ハロルド博士は軽くはぐらかすと、携帯電話を取り出した。そして短縮番号を入力して待つ。暫く待つと、相手が電話口に出たようだった。
「私だ。スイシーゼと現在の保護者を保護した。作戦23番で監視を撹乱する」
ハロルド博士は短く用件を伝えると、さっさと携帯を切ってしまう。今の言葉だけでは陽介には内容は全く分からなかった。
「一体どうするんです?」
「古い手を使うのさ」
陽介の問いに、ハロルド博士は一言だけ答えると車を発進させた。

Scene-5. 国道246号線

 車は国道412号線から国道246号線渋谷方面へと入った。帰宅ラッシュの最も激しい時間帯であり、車は相模川を越えた辺りで渋滞に巻き込まれる。ハロルド博士はこの一帯の渋滞の特性を知っているのか、渋滞が始まるや否や左側に車線を移動する。
 その車の中で陽介は、後部座席からハロルド博士に声を掛けた。
「そろそろ話してくれてもいいでしょ? あいつら、何者なんです? 貴方は一体何をやっている人なんです? それに………」
陽介は暫く言葉を切って、気持ちよさそうに肩に額を預けているスイシーゼの頭を撫でながら言った。
「どうしてシーゼが狙われなけりゃならないんです? シーゼって一体どういう子なんですか?」
「私も全てを知っているわけではない」
ハロルド博士は前置きしてから語りだした。
「まず、奴等の正体だな。現時点では“米軍の中の一派”としか言い様がない。彼らが一体どんな活動をしているのか、何が目的なのか、それは目下調査中だ」
「要するに何も分かっていない………」
「恥ずかしながら、そう言うことだな」
ハロルド博士は自嘲にも似た笑みを浮かべて言った。
「で、私が何をやっているかという事だが、普段からこんな事をやっているわけではない。私は、私が率いる新世紀科学研究所は現代科学では解明されていない超科学を研究している」
「超科学?」
陽介は些か疑念の眼差しを作って、ルームミラー越しにハロルド博士の顔を見る。
「君は、神奈川工業大学の学生なのかな? ならば訝しむのも無理はないか」
「UFOがなんだとか、超能力とか、そう言うクチですか?」
「テレビに出てくるようなメディアに汚染された似非科学者連中と一緒にされては困るな。我々の研究はもっと現実的だよ」
「例えば、何を作ってるんです?」
陽介は、それでも疑惑の眼差しを解かずに言った。もっともらしい理論、その実ただの三段論法で飾られた超科学を信じる趣味はない。
「もっとも端的なのは“永久機関”だな」
ハロルド博士はこの工学部の学生にあからさまに反論されることを覚悟して言った。
「エネルギー保存則はどうするんです?」
そう言い返した陽介に、スイシーゼは怪訝な瞳を向けていた。そして言う。
「ねぇ、陽介ぇ。何を話してるの?」
「うん? シーゼにはまだ難しい話かな?」
「シーゼ、全然分からないよ?」
陽介は笑ってスイシーゼの頭を撫でると言った。
「シーゼは分からなくてもいいんだよ。難しい話だからね」
「ふぅん………」
スイシーゼはさして感動しなかったのか、再び額を陽介の肩に預けた。その様子を見てからハロルド博士は言った。
「月並みな質問だな。だが重要な質問だ」
ハロルド博士は一呼吸置いてから続けた。
「エネルギー保存則とは、エネルギー、あるいはそれと等価な質量は創造もされず、破壊もされないと言う科学の基本的法則なのは知っているな。もちろん保存則は正しいさ。零から壱は作れない。原因のない結果はない。それが因果律だな。だが、人類が着眼している系その物が狭い範囲の物でしかなかったらどうだろう?」
「狭い?」
「そうだ。人間が測定出来得る下限よりも小さい粒子が真空中に充満しているとしたら? 表面的にはエネルギー保存則は破られることになる。事実、極微の世界ではエネルギー保存則が成り立たないのも確認されつつある」
「今度は素粒子論ですか?」
陽介は些かげんなりした様子で答えた。
「そうしたら、今度はエーテルにでも発展するんですか? エーテルの存在はマイケルソンとモーレーの歴史的実験で否定されましたし、それを元にして相対性理論だって出来ています。相対論を使って原爆だって爆発したんだ」
「君は、ただの工学部の学生にしては的確に突いてくるな。似非科学者を黙らせる手段も持っているらしい。興味があるなら物理学科にでも転向したらどうかね? もっとも、数学科よりも数学を使うことになるが………」
ハロルド博士は感心するように言ってから答えた。
「確かに、エーテルは君の言うマイケルソンとモーレーの歴史的実験で否定された。だが、相対論がそれを元に成立したというのは間違いだな。科学史的見地に立って判断すると、アインシュタインは特殊相対論を発表した段階ではその歴史的実験を知らないという結論に達せざるを得ない。これは教科書が理論を教えやすくするために言っている嘘の一つだよ」
ハロルド博士は暫く沈黙し、陽介の反論が返ってこないのを確かめると続けた。
「偉大なるアルバート・アインシュタインが導き出した相対性理論は以後、様々な理論と戦い、また、その真実性は今でも常に検証されている。たかが自称科学者共が矛盾を見付けた等と騒いだ処で、そんな矛盾はとうの昔に解決されているか、自称科学者共が相対論を全く理解せずに勘違いだけで騒いでいる物に過ぎない」
ハロルド博士は正当科学者の返答のそれと相違ないことを言う。それは今まで永久機関を語っていた者の答えとは思えない物だった。
「よくあるのが、超光速粒子が見付かったから相対論は間違っているという短絡的な物だが、相対論は光速度の壁は破れないと証明しているが、超光速の存在は否定してはいない」
ハロルド博士は一呼吸置いて続けた。
「だが、今の科学者が気付いていない、もしくは確認出来ていないのは、偉大なるアインシュタインの言葉そのものだ。彼は
『エーテル仮説を証明しようとする多くの論議がなされている。エーテルを否定すると、物理的な性質を何も持たない、空、無の空間を結局は仮定しなければならない。力学的な基本的現象はこの見方とは一致しない。一般相対性理論によると空間は物理的性質を有しているから、そこになにかエーテルの如き存在を仮定しなければならぬ。一般相対性理論ではエーテルを持たぬ空間を考えることは不可能である』
と自ら語っている。もっとも、彼の言うエーテルとは“古典物理学の中のエーテルとは全くの別物”だがね」
ハロルド博士はルームミラー越しに当惑している陽介を見てから続けた。
「私は相対性理論は正しいと思っている。ただ、相対性理論でも証明しきれない極微の世界があると思っているのだ。相対性理論が登場したからと言ってニュートン力学が否定されたか? 科学とはそんなに単純ではないのだよ」
 ルームミラーの中で、陽介は完全に惚けていた。元々、物理学科でない陽介には難しすぎる話なのかも知れない。ちょっとでも興味があれば分かるぐらいの内容にレベルを押さえたつもりなのだが。
「すまない。少し力みすぎてしまった」
ハロルド博士は申し訳なさそうに言うと、次の論題に移った。
「次の、なぜスイシーゼが米軍に執拗に狙われなければならないか、と言うことだが………」
今まで何となく聞き耳を立てていたスイシーゼがぴくりと反応して、陽介のYシャツを強く掴む。陽介はそのスイシーゼの体を抱きしめながら、静かにハロルド博士の言葉を待った。
「………今の所、スイシーゼが機密だと言うことしか予想出来ない」
だが、陽介の覚悟に反してハロルド博士の言葉は素気ない物だった。分からないことが多すぎるのか。
 一呼吸置いてルームミラー越しに陽介の視線を睨み付けたハロルド博士は、低い声で言った。
「スイシーゼが一体どういう子なのか? 君はそれを知っても今と同じようにスイシーゼを好いていてくれるか?」
陽介はハロルド博士の視線から瞳をそらさずに答えた。
「あれだけ色々とあった後なんだ。大概の事じゃ驚きませんよ」
「そうだったな。スイシーゼの力を目の当たりにしても、君はスイシーゼを放り出さなかったんだったな。ならば、安心出来るか」
ハロルド博士はそう言って、陽介にしがみついているスイシーゼを見た。スイシーゼはそうすることで安心出来るかの様に、その体を陽介の預けている。少し震えているか。その体を陽介は優しく抱きしめていた。
 ハロルド博士は視線を前方に戻して、呼吸を整えると言った。
「スイシーゼは、滝川博士が開発したバイオニックチャイルドの、2体目の完成体だ」
「バイオニックチャイルド………」
陽介はその言葉を無意識に繰り返しながら、強くスイシーゼを抱きしめる。
「バイオニックチャイルドは、人間の遺伝子に、様々な調整因子、つまりスイシーゼの様に普通の人間にない力を与える遺伝情報を組み込んで作られた新人類だ」
「どうして、そんなこと………」
陽介は呆然としながら呟く。
「滝川博士は、人類の未来のためだと信じていた………。そして彼が心血注いで生みだし、娘として大切に育ててきたのがスイシーゼだ」
陽介は暫くスイシーゼに視線を落としてから言った。
「なんでシーゼが、機密なんです?」
「滝川博士と、彼のスポンサーの意志が衝突したのさ。滝川博士はスイシーゼを人類の希望として生み出した。だが、スポンサーはバイオニックチャイルドの基礎技術を軍事利用出来れば良かったのだ」
「そんなっ!! こいつをっ!! こんな無邪気で素直なシーゼを軍事利用!?」
「そんな事を許すわけがなかろう!!」
喚いた陽介を制するように、ハロルド博士は叫んだ。スイシーゼは無言で陽介の胸に顔を埋めている。
 陽介は暫く呼吸を整えてから、呟くように言った。
「そうですよね………。シーゼを人殺しの道具になんか、させられないですよね」
「当たり前だ。でなければ苦労して助けようなどとはしない」
ハロルド博士は言い放って、進み出した前の車を乱暴に追い越した。渋滞のポイントを抜け出した車は暫くは順調に走るはずだ。少なくとも次の信号までは。
「詳しいことは、滝川博士から直接聞いてくれ。スイシーゼを大切に思ってくれる君になら、全てを語ってくれる筈だ」
ハロルド博士は静かに言う。陽介はその言葉を聞いて、再びスイシーゼを強く抱きしめた。
「俺は、こいつの全てを知って、全てを受け入れなくちゃいけない。そういうことなんですね」
「そうだ」
ハロルド博士の返答は短かったが、心做しか陽介を励ますような響きに包まれていた。

Scene-6. 厚木基地

 『ターゲットはルート246をなおも北上中、程なくして下鶴間トンネルに入ります』
偵察衛星から直接監視しているオペレーターの報告は、国防総省ペンタゴンからの衛星ホットラインを通じて送られてきた物だった。単方向通信でのみ送られてくるそれは、今までも淡々と渋滞の中を進むターゲットの車の情報を提供している。
 「トンネル? 古い手に引っかからないだろうね?」
女はその報告に眉をひそめて言った。女の格好は、いつもとは違う物だった。ライダースーツの様な全身を包むスーツに、胸と背中にだけ樹脂製らしいアーマーを着けている。その背中のアーマーにはProject Alternative IIIの文字と共に、BC-H203の刻印がされていた。
 「下鶴間トンネルは完全な一方通行路だ。途中でのUターンは出来ない」
それにベネウィッツが答える。下鶴間トンネルは国道246号線の大和付近にあるトンネルで、地図上ではあたかも断層か何かでずれてしまっている246号線を地下で繋いでいる。その中央分離帯は分厚いコンクリートで固めてあり、車でのUターンは不可能だった。
「下り線が渋滞している様だが?」
女は下鶴間トンネルの反対車線が止まっているのに気付いて言う。ベネウィッツは吐き捨てるように答えた。
「事故車でもあるのだろう。珍しいことではない」
女はその返答に軽く相槌を打っただけで答えた。確かに、脱出路がない下鶴間トンネル内での事故は長大な渋滞を巻き起こす。裏道開発に乏しい246号線ではよくあることだった。
 ベネウィッツは女に一瞥をくれて言った。
「挨拶とやらはまだ行かないのか?」
「奴等の本拠地が分かってからでも遅くないだろう?」
女は即答すると、衛星からの直通回線で送られてくるビッグバードの映像が映っているモニターを軽く叩いた。
「大体、ルート246を走られていたんじゃ何処まで行かれるか分かったもんじゃない」
女はそう言って、右の拳を目の高さで掲げて見せた。その拳が青白い光の粒を纏って輝いている。
「奴等の本拠地が見付かって、奴等が次の行動に移ったときに挨拶してくるさ。あの女を痛めつけにね」
女は言って、凄絶な笑みを浮かべる。ベネウィッツは一瞬その迫力に押されながらも、黙って女の次の行動を待った。
女はベネウィッツの様子など気にもとめずに、再びモニターを凝視した。

Scene-7. 国道246号線

 大和市上草柳にある、そそり立ったコンクリートの壁に挟まれた道を抜けると、大きめの交差点がある。その交差点を抜けた先には下鶴間トンネルが地下へと口を開けていた。
 ハロルド博士はそれを見てから言った。
「降りる準備をしておいてくれ。ここで車を乗り換える」
「ここで?」
陽介は怪訝な顔で言う。ハロルド博士は少し皮肉げに笑って、前の車に続いて発進させた。二車線になっているトンネル内で、左側の車線に乗る。
 下鶴間トンネルは入って直ぐの処で急な左カーブ、直線が暫く続いて緩やかな右のカーブ、そして出口となる。直線の時は、天井が一部吹き抜けになっていた。
 トンネルに入って程なくして、車は渋滞に巻き込まれた。トンネルを抜けた先にある合流、交差点の三連続が渋滞のポイントになっているのである。
 ハロルド博士は直線の中程でおもむろにハザードランプを点灯させる。後ろの車が慌てて車線を変更しようと右ウインカーを出した。しかし渋滞の中では簡単には動けない。
「こんな処で止まる?」
訝しむ陽介に構わず止まったところには、男が一人立っていた。
「降りるんだ」
ハロルド博士は短く言って、自らも車を降りる。その運転席に待っていた男が乗り込んだ。
「気を付けてくれ。どうせどうやったところで何れは我々の居場所も奴等に知られる。適当なところで車を放棄して電車で帰って来るんだ」
「ええ、分かってます。ハロルド博士も気を付けて」
男は短く答えると、ハザードランプを消した。後方の車の運転手が訝しげに見る前を、ハロルド博士は堂々と渡り始める。
 渋滞の中を平然と渡ってしまったハロルド博士はコンクリートの壁の一角を指さして言った。
「ここから反対車線に入る。古い手だろ?」
それは非常用の通路だった。直線の途中の一カ所だけ、反対車線へと入れる通路があったのだ。
「なるほど………」
陽介は半ば呆れながら呟いた。渋滞車両の間を縫って行けるバイクでは気付かない物だ。
 通路を抜けた先には、やはりハザードランプを点けて止まっている車があった。天下の国道246号線で大胆なことをする。
 ハロルド博士は運転席に乗り込むと、エンジンをスタートさせた。陽介達も後部座席に乗り込む。ハロルド博士はそれを確認すると、ハザードランプを消して車を発進させた。

Scene-8. 新世紀科学研究所別室

 陽介達が案内されたのは、海老名市にあるマンションの一室だった。表札には小さい文字で『新世紀科学研究所別室』と書かれている。
「ここだ。入ってくれ」
ハロルド博士は二人を促すと、自分も別室へと入っていく。その途端、中から数人の男達が駆け付けてきた。
「お帰りなさい、やりましたね!」
男の一人が言う。スイシーゼはその男の勢いに押されて、思わず陽介の背後に隠れてしまった。
「スイシーゼを余り刺激しないようにな」
ハロルド博士はそのスイシーゼの様子を見て苦笑いをしながら言う。そして後ろ手にドアを閉めて、部屋の中へと入っていった。
 ハロルド博士は手近なソファーを陽介達に勧めると、自分は窓際の事務椅子に座った。そして回りに立っている男達に向かって言った。
「紹介しよう。彼は衿岡陽介君、スイシーゼを今まで保護してくれていた。今のスイシーゼを最も安心させてやれる青年であることは、見れば分かると思う」
ハロルド博士は微笑を浮かべて、スイシーゼの様子を見た。スイシーゼはやはり、陽介の腕にしがみついて離れようとはしない。二人切りの時には想像も出来なかった大人しさではある。
「衿岡陽介です、よろしく」
紹介された陽介は小さく頭を下げていった。
「順に紹介しよう。彼らはこの研究所の研究員達で、皆それぞれに独自の研究テーマで研究を続けている」
ハロルド博士はそこまで言って、端の男から順に紹介していった。一度に覚えられるギリギリの人数と言うところか。陽介は軽く相槌を打ちながら氏名ではなく名字のみを記憶していく。
 研究員達は口々に陽介に対して礼をしていった。だが、何も礼を言われるべき事などしていないと思っている陽介はただ戸惑うだけではあったが。
 全員の紹介が済むと、ハロルド博士はおもむろに切り出した。
「陽介君、スイシーゼ、明日は早速だが滝川博士の元に向かおうと思っている」
ハロルド博士の言葉を聞くと、スイシーゼは肩を振るわせて陽介に強くしがみついた。
「恐いのかい?」
陽介が優しく問う。スイシーゼは陽介の視線を見上げて呟くように答えた。
「分からないよ………。嬉しい筈なのに………何だか恐いの………」
「大丈夫、恐い事なんて何もないよ」
陽介はそう囁き掛けると、スイシーゼの頭を胸に抱きしめた。スイシーゼは何も言わずに陽介の胸に顔を埋めている。
 ハロルド博士はその様子を見つつ続けた。
「滝川博士と合流次第、新世紀科学研究所、新科研に向かおう。そこで私の仲間がスイシーゼの記憶を呼び戻すための装置を開発している途中だ」
「スイシーゼの記憶が、戻せるんですか!?」
陽介は驚いて叫んだ。スイシーゼも驚いてハロルド博士の方を見ている。
「スイシーゼの記憶は別に消えているわけではない。上からプロテクトが掛けられているだけだ」
「どうしてそんなこと?」
「私には、いや私にも分からない。滝川博士は上から命令されて仕方なくやったらしい」
ハロルド博士は即答して、椅子から立ち上がった。陽介達の前まで歩いて、不意に陽介とスイシーゼの肩を叩く。
「緊張の連続で疲れているだろう? ここは暫くは安全だ。ゆっくり休むといい」
ハロルド博士はそう言って、研究員の一人に言った。
「今使える客間は一つだったか?」
「ええ。もう一つは機材が入っていまして。取り出すのには1時間もあれば充分ですが?」
「よし、やろう」
ハロルド博士は言って、機材で埋まっていると言う客間へと歩き出した。その様子を見ていた陽介は慌てて言う。
「ハロルド博士! 客間って、俺達が泊まるところですか?」
「無論、そうだが?」
ハロルド博士は陽介の言いたいことが予想出来ないのか、怪訝な表情を返した。
「だったら、一つでいいです。シーゼとは、いつも一緒に寝てましたし」
ハロルド博士は一瞬呆気に取られてから、慌てて口を開いた。
「とは言っても、ベッドも一つしか用意されていないが………?」
「どうする? シーゼ」
陽介は微笑を浮かべながらスイシーゼに言った。スイシーゼは迷うことなく陽介の首に抱き付いた。
「シーゼ、陽介と一緒に寝るぅ!!」
「ほらね」
陽介はスイシーゼを指差しながらハロルド博士に笑い掛けた。ハロルド博士はやや呆然とした面持ちをしてはいたが、苦笑いをして言った。
「客間は一番奥だ。ベッドも小さい物ではないから狭くはないだろう」
「有り難う御座います」
陽介はスイシーゼの背中を軽く叩くと立ち上がった。そして荷物を抱えて客間へと向かう。
 ハロルド博士はその二人の後ろ姿を見送りながら、小さく呟いていた。
「………まさか、これ程とはな………」

Scene-9. 厚木基地

 『ターゲットの車を降りた人物は長津田七丁目付近にて車を放棄、長津田駅から列車に乗り換えた物と思われます。なお、車中にスイシーゼ及び衿岡陽介の姿は確認されません』
ベネウィッツはその報告に舌打ちした。その様を見た女は蔑みの笑みを浮かべて言い放つ。
「古い手に引っかかった様だね。なまじに204の感知能力を恐れて監視体制を変更したのが失敗だったのさ。堂々と監視した方がプレッシャーを与えられた物を御丁寧に衛星何ぞ使うから」
「うるさいっ!」
ベネウィッツは荒々しく机を叩き、女を睨み付けた。女はしかし、全く意に介さずにベネウィッツに背を向けた。
「何処へ行くつもりだ!?」
その女の背中にベネウィッツが叫ぶ。女は振り返らずに言い放った。
「私が直接探す。滝川が私に付けた能力ならば造作もない」
「超感応力か………」
女はその言葉には応えずに、扉を静かに開けると、力一杯閉めた。扉の閉められた音が部屋を瞬間満たし、そして消えていく。後に残されたベネウィッツは深い溜息と共に目を閉じた。

Scene-10. 新世紀科学研究所別室・客室

 陽介は客室に入ると、鞄を絨毯張りの床に落として肩の力を抜いた。今まで陽介の腕にしがみついていたスイシーゼは、部屋の中のベッドを見るや否や突然軽やかな動作でジャンプすると飛び乗った。そのままベッドの上で跳ね回る。
「うわぁ!! 陽介ぇ!! ふかふかだよ、ふかふかぁ!!」
スイシーゼは二人切りになれた事で安心したのか、途端に騒ぎだす。会話を聞かれている可能性もあるのだが、見られていないというだけで安心してしまうらしい。
「こぉら、調子に乗って騒ぐんじゃない」
陽介はそう言って、軽くスイシーゼの頭を叩く。
「うにゃ!」
と、スイシーゼは意味不明の言葉を発してその陽介の手を頭上で受けとめた。そしてそのまましっかりと握ると、無理矢理陽介をベッドに引きずり込んだ。
「うわっ、こらシーゼ!!」
「早く寝ようよぉ!!」
スイシーゼはそう言って、倒れ込んだ陽介に抱き付いてしまう。
「着替えてからだっちゅうに」
「はぁい!」
スイシーゼは陽介の体を離すと答えた。解放された陽介は鞄の中から自分とスイシーゼのパジャマを取り出す。パジャマの一着をスイシーゼに手渡すと、自分は一度部屋の外に出て着替えてくる。スイシーゼもその間にパジャマに着替えていた。今まで着ていた服は無造作に散らばっている。
 陽介はやれやれと小さくため息を付きながら脱ぎ捨てられた服を畳むと、ベッドに滑り込んだ。既に毛布を被っていたスイシーゼは、仰向けになっている陽介に唐突に覆い被さるように飛びついた。
「お、おいっ!?」
陽介の当惑する声も無視して、そのまま彼の体に抱き付いて頬摺りする。
「こら、シーゼ?」
陽介のその声に、スイシーゼはベッドに手をついて上半身だけ起こした。そして陽介の瞳を見つめて言った。
「今日はシーゼ、こうやって寝たいの。だめ?」
そう言って、陽介の肩に頬摺りする様に抱き付いた。その陽介を抱きしめる腕が心做しか震えている様に陽介には感じられる。
「恐いのか?」
「うん」
陽介の問いにスイシーゼは素直に答えてから続けた。
「でもね、陽介とこうやってると、シーゼ、何だかすごく気持ちいいの。とっても暖かくて………。恐いの、忘れられそうなの………だから、いいでしょ?」
抱き付いたまま言ったスイシーゼを、陽介はそっと抱きしめる。
「ああ。いいよ」
「ありがと………」
 スイシーゼはそれっきり、暫く口を開かなかった。陽介には、少女が寝ていないことなど直ぐに分かったのだが、スイシーゼはいつもとは違って静かに陽介に身を預けている。なかなか寝付かれないらしい。それは陽介も同じ事なのだが。
 暫くの沈黙。陽介は意を決して口を開いた。
「明日はやっと、シーゼのお父さんに会えるんだな」
「お父さん………よく分からない………」
スイシーゼは震える声で答えて、再び沈黙した。陽介は構わず続ける。
「お父さんに会えたら、今度は記憶を取り戻すんだね。そうしたら、今まで分からなかったシーゼの事、全部分かるかな?」
陽介はそう言って、スイシーゼの頭を撫でた。数瞬の沈黙の後、スイシーゼは口を開く。やはり震える声で。
「………シーゼ………記憶なんて欲しくないよ………。自分の事なんて分からない方がいい………」
「シーゼ………?」
陽介は少女を撫でている手を止めて言った。
「シーゼはね………前みたいに陽介と一緒にいたいだけなの………」
スイシーゼは体を振るわせて呟く。少女の瞳を流れ出た涙が肩に落ちるのを陽介は感じた。
「そんなのは、いけないよ」
陽介は再びスイシーゼの頭を撫でながら言う。
「シーゼは俺のこと、好きかい?」
「大好き………」
スイシーゼの答えは間髪入れずに返ってきた。
「俺も、シーゼの事、好きだよ。でも、それだけじゃない。シーゼのお父さんだって、シーゼの事好きなんだ。シーゼはそのお父さんのこと、忘れたままでいいのかい?」
「よく、ない?」
「そうさ」
陽介の返答にしかし、スイシーゼは陽介に抱き付く腕に力を込めた。
「でも、でも………! シーゼ、自分のこと知りたくない! だって! 自分のこと知ったらシーゼはシーゼじゃなくなっちゃうかもしれないよ!!」
スイシーゼは涙声で叫ぶ。暫く嗚咽を漏らしてから、続けた。
「シーゼがシーゼじゃなくなっても………陽介は優しくしてくれる………? シーゼの事好きなままでいてくれる?」
「当たり前だろ」
陽介は即答して、スイシーゼを抱きしめる腕に力を込めた。苦しいのか、少女は小さく苦悶の表情を浮かべる。
「シーゼがどう変わっても、シーゼはシーゼだ。それに………好きな女の子のことは何でも知っていたいだろ?」
「陽介ぇ………」
スイシーゼはか細い声で呟く。
「さっさと寝ちまえ。いらない心配何かしないで、いつもみたいに俺に甘えてる夢でも見なよ」
「うん」
スイシーゼは短く答えて目を閉じた。陽介の腕に体をきつく抱きしめられているということを、純粋に心地よいと感じながら………

Scene-11. 新世紀科学研究所別室

 スイシーゼは客室に入って陽介と二人だけになるや否や騒ぎだしたようだった。
「………なるほど………」
ハロルド博士は呟く。たしかに人見知りが激しい。心を完全には許していない者の前では静かにしているばかりだったが。
 ハロルド博士は電話を取ると、短縮番号を入力する。暫く待って相手が出て来た。
『どなたかな?』
相手は名乗らずに言う。ハロルド博士は短く言った。
「ハロルドです」
『おおっ!! ハロルド博士か!! 君から掛けてきたと言うことは!?』
電話の向こう、滝川博士は叫んだ。ハロルド博士は受話器に向かって笑みを浮かべながら言う。
「はい。娘さんは保護しました。今までスイシーゼを保護してくれていた青年も、彼女のことをとても大切に思っていてくれています」
『そうか………そうか………』
そう繰り返す滝川博士の声には、幾許かの嗚咽が混じっているようだった。
「それで、明日に早速お連れしましょう。それと、少し気になっているのですが?」
『なんだね?』
「スイシーゼは人見知りすると仰っていましたよね?」
『そうだが?』
滝川博士は怪訝そうな声を上げる。ハロルド博士は数瞬間をおいてから続けた。
「スイシーゼは、衿岡陽介君、現在の保護者ですが、彼にとてもなついています。その甘え様は凄い物ですが?」
『会ったら礼を言わねばならないな。スイシーゼは純粋に自分のことを想ってくれている相手にしか心を開かないよ。相手の心が分かるんだ。本人は“暖かい”と言っていたがね。そのスイシーゼが甘えると言う事は、陽介君かな、その青年は随分とスイシーゼのことを想っていてくれているらしいな』
「そういう事ですか」
ハロルド博士は微笑を漏らしながら言う。二人の出会いは偶然なのか、必然なのか。
『会ってみたいものだな、その青年に』
電話の向こうから聞こえた滝川博士の声は弾んでいた。だが、何か思うところがあるのか、不意に静かな声音になる。
『陽介君には、話したのか? スイシーゼのこと………』
「話しましたよ。安心して下さい。彼の態度は全く変わっていませんよ」
『そうか。ますますもって会ってみたい。会って礼が言いたい』
ハロルド博士の返答を聞いた滝川博士は安堵した様に言う。
「明日の、早い内にそちらに伺います」
『ああ、頼むよ。有り難うハロルド博士』
「では」
ハロルド博士は短く答えて、受話器を置いた。軽い安心感が全身を満たしていた。

Scene-12. 1999年5月30日 日曜日 新世紀科学研究所別室・客室

 カーテン越しに陽光が入り込んでいた。陽介は一足先に目を覚まし、その陽光に目を細める。スイシーゼは未だ、心地よい寝息を立てている。と、まるで陽介が起きるのを待っていたかの様にドアがノックされた。
「はい?」
陽介はなにげに返事をする。
「起きている様だな。そろそろ準備をしてくれないか?」
ドアをノックしたのはハロルド博士だった。
「ええ。分かりました」
陽介は答えると、胸の中で眠っているスイシーゼの肩を揺すった。
「ふにゃぁ………」
スイシーゼは寝ぼけ眼を開け、手の甲で擦る。
「起きなよ、シーゼ。もう朝だよ」
「………うん………」
スイシーゼはのろのろと起き上がり、ニッコリと微笑んだ。
「おはよう、陽介ぇ!」

Scene-13. 国道51号線

 陽介達は簡単な昼食を済ませると、早速出発した。ハロルド博士の運転する車で、国道51号線を相模原方向へと走る。陽介はやはり後部座席にスイシーゼと共に座って、回りの風景を眺めていた。
「今向かってるのは、新科研ですか?」
「いや、違う。最終的には新科研に向かうが、今は滝川博士の潜伏先である国立相模病院へ向かっている」
ハロルド博士は前を見たまま答える。陽介は窓から外を見たまま言った。
「潜伏先?」
「ああ。相模病院の医者の一人が新科研のメンバーでな。国立病院なら米軍の捜査の手も簡単には伸びないだろうと言う判断で隠れてもらっている」
「新科研って、色々なところにコネを持ってるんですか?」
「いや、たまたまだ。民間の研究団体と言うのは何処にコネクションを持っているかなんてのは千差万別だからな」
大概そんな物だろうと勝手に納得して、陽介は不安そうにしがみついているスイシーゼに視線を落とした。見られていることに気付いたスイシーゼはそっと視線を上げて暫く陽介を見ると、再び彼の胸に体を預けた。

 ハロルドの車に遅れること数百メートル、一台のバイクが同じ国道51号線を走っていた。全身を覆うスーツに身を固めた女は、ヘルメットを被らずに走っている。赤毛のショートカットは直接当たる風になびいていた。
 女は遥か彼方前方を見据え、口の端を歪ませた。
「見付けたよ、スイシーゼ………」
そう呟いて、強引に前方の車を追い抜く。
「貴様と滝川が私にした仕打ち、この恨み、思い知らせてやるよ………」
女は言うと、凄絶な笑みを浮かべてスロットルを一気に捻った。一気に加速されたバイクは相武台入谷バイパスの急なカーブを強引に抜けていった。