第8話『悲しみの過去 ~ Sorrowful past』

Scene-1. 1999年6月2日 水曜日 港北ニュータウン

 宅地造成されて間もない新しい町並みの中に、突然爆発の大音響が響きわたった。その爆発の向こう側から黒い影が何体か踊り出す。影は迷うことなく一点を目指した。
 車道の端にバイクを止めた少女の姿。影はその姿に殺到する。少女は別段慌てもせず、静かに右手を天にかざした。それだけで充分だった。殺到する影───大型の猿のような姿をした怪物───は少女に触れることもできずに、見えない壁に激突して弾き飛ばされた。
「たかが模造品が………」
少女、シェネラは侮蔑の篭った声で吐き捨てると、静かに掲げていた右手を降ろす。シェネラの言葉が分かったわけでもなかろうが、怪物、バイオニックウェポンが体勢を低くしてうなり声を上げた。
 接近戦に持ち込めないことを悟ったか、シェネラを取り囲んだバイオニックウェポンは一斉に両腕を突き出す。空気を振るわせる轟音と共に、閃光が走った。
 だが、やはりその力はシェネラに届くことはなかった。閃光はシェネラの周囲に張り巡らされているらしい壁に阻まれて、露と消える。
「ただでさえ威力が低いのに………光だの音だので損失を増やしてどうする………」
シェネラの声はあくまでも冷ややかだった。バイオニックウェポンは目の前の“敵”に対して有効な手段の持ち合わせがないことに思い至って一歩後退する。
───私は何をしているの………?
シェネラの脳裏に一瞬疑問がよぎる。だが、シェネラは疑念を一瞬にして振り払うと、力任せに右腕を振り回した。その瞬間、1体のバイオニックウェポンが跡形もなく消え去っていた。
 歴然としている力の差がバイオニックウェポンに恐怖の感情を抱かせた。完全に腰が引けている体勢で、逃げ腰になる。
「………生意気に恐怖を感じているのか………。だけど、逃がしてやるわけにはいかないんだよ」
シェネラは静かに呟くと、目の前の一体に精神を集中していた。

Scene-2. 新世紀科学研究所・医務室

 重傷とは、この時のためにある言葉ではないかと思われた。下条の車に遅れること1時間、新世紀科学研究所に到着したハロルド博士は滝川博士の状態に固唾を呑んだ。早く医者に見せなければ! 応急処置などでは到底太刀打ちできない深い傷が滝川博士の体を確実に蝕んでいた。
 「………酷いな………」
ハロルド博士は分かってはいても口に出さずにはいられなかった。そのハロルド博士に下条が答える。
「僕も散々医者に行こうって言ってるんですけどね、他ならない滝川博士本人がやめろって強行に拒否するんですよ」
「確かに医者に行けば我々は確実に拘束されるが………」
ハロルド博士は苦虫を噛み潰したかのような表情で言う。そして荒い息を繰り返している滝川博士の耳元で、囁き掛けるように語りかけた。
「滝川博士、今ならまだ間に合います。直ぐに病院に行って応急処置を受けて下さい。無理にでも連れていきますよ」
「………だめだ………!」
辛うじて意識を保っていたか、滝川博士の声は間髪入れずに返ってきた。
「………ハロルド博士………私を、未完成のシステムのところまで………連れていってくれ………」
「無茶を言わないで下さい。システムをどうにかする前に滝川博士が死んでしまいます」
ハロルド博士は諭すかのように言うが、滝川博士は聞かなかった。
「大丈夫だ………。それが父親というものさ………」
滝川博士は荒い息を付きながら答え、半身を起こす。それだけでも尋常ではない激痛が伴っているはずなのだが、滝川博士は軽く顔をしかめただけで絶えてみせた。
「止血と、軽い鎮痛剤を打つ程度でどうとでもなるよ………」
呆然と見つめるハロルド博士と下条の目の前で、滝川博士は自らの2本の脚で立ち上がった。

Scene-3. 新世紀科学研究所・客室

 新世紀科学研究所の建物自体は決して大きくはない。唯一のスポンサーである通称“総研”が本社を移転した際にお下がりで貰った建物で、基本は4階建て。ガレージと倉庫、機械作業室でしめられる1階。研究設備が入っている2、3階。資料室、医務室、客室、仮眠室などの部屋が入っている4階、そして屋上になる。
 陽介とスイシーゼはやはり客間に通されていた。先のシェネラとの接触から意識が戻らないスイシーゼをベッドに寝かせて、陽介はその傍らで静かに座っている。
 静かな寝息を立てるスイシーゼに視線を止めたまま、陽介は自分自身でも表現できない鬱積した思いに捕らわれていた。新世紀科学研究所に到着すれば、後はスイシーゼの記憶を取り戻すだけ。スイシーゼが記憶を取り戻せば事態は好転するだろうと、ハロルド博士は言っていたが、それはスイシーゼを“戦力”として数えたからに他ならない。
 彼はスイシーゼを戦わせるためにここまで来たのではない。ただ、スイシーゼの全てを知るためにここまで来たのだ。スイシーゼが記憶を取り戻すことが、必ずしも今のスイシーゼにとって良いことなのか。絶対的な視点が存在しない以上は答えを求めるのは無理なのではあるが、それでも陽介は答えを欲していた。
 「………うん………」
陽介の視線の先で、スイシーゼは軽く鼻を鳴らす。静かに、少しずつ瞳が開かれた。陽介は努めて、その視線が初めて捉えるであろう場所から覗き込む。
「………ふにゃ?」
スイシーゼは視界に陽介を捉えると、意味不明の言葉を発して微笑んだ。その背後に、見慣れない天井が見える。
「ここ、どこ?」
と不安げな表情のスイシーゼ。陽介は優しく微笑むと、静かに答えた。
「もう着いたよ。新科研に」
「ふぅん………」
スイシーゼは安心したように呟く。だが、直ぐに表情を曇らせて言う。
「お姉ちゃんは………?」
ベッドに横たわったまま、スイシーゼは不安げな表情を陽介に向ける。
「帰ったよ」
だが、陽介はそう答えるしかできなかった。シェネラの様子がいつもと大分違ったことも、まだよく分からない。何かに混乱して逃げ出したようだったが、不確実なことをスイシーゼに伝えても何も始まるまい。
「そっか………」
スイシーゼは毛布を両手で持ち上げて、顔の下半分を隠すように引っ張り上げる。そして何をするでもなく、じっと陽介の瞳を見つめていた。
「どうしたの………?」
陽介はスイシーゼの視線を真正面から捉えて言う。スイシーゼは視線をやや逸らして、小声で答えた。
「シーゼ………記憶を取り戻すんだね………」
「まだ機械ができてないんだってさ。なんでも一週間ぐらいかかるって」
スイシーゼはその答えに黙してしまった。毛布を更に引き上げて、顔を隠してしまう。
「ねぇ………陽介ぇ………」
「ん?」
スイシーゼはしばらく間をおいて───言葉を探しているのか───から続けた。
「やっぱり………記憶は取り戻さないと駄目かなぁ………?」
陽介は何か言おうとしても何も思いつかず、無言でスイシーゼを見つめる。スイシーゼはそれを勝手に解釈したのか、毛布の下から顔を出すと震える声で呟いた。
「でもさ………記憶を取り戻したら、シーゼはシーゼでいられるのかなぁ………」
その言葉に陽介が凍り付く。彼の今現在での一番の懸念事もそれであったのだ。スイシーゼが記憶を取り戻しても、二人の関係は今のままでいられるのか? 何より、記憶を取り戻した後のスイシーゼは二人の共通の記憶を保っていられるのか? 記憶喪失の人間が記憶を取り戻して、その結果に記憶喪失中の記憶を喪失するということはあまり聞かないが、スイシーゼの場合は特殊である。彼女は記憶を喪失しているのではなく、封印されているのだ。
 「ねぇ………もしシーゼが記憶を取り戻して、シーゼが変わっちゃったら、陽介は今までみたいにシーゼのこと大切にしてくれる………?」
陽介は答える代わりに、スイシーゼをそっと抱き起こすと強く抱きしめた。スイシーゼにはそれが答えになったのかもしれない。やや安心した表情で陽介の首に腕を回した。二人はそれから、しばらくの間抱きしめ合っていた。

Scene-4. 1999年6月3日 木曜日 厚木基地

 ベネウィッツの怒りは頂点に達する寸前だった。偵察衛星ビッグバードからの映像を解析した結果、消息を絶った10体のバイオニックウェポンはシェネラによって消去されていたことが判明したのだ。
 ベネウィッツは専用回線でシェネラを呼び出すと、机の上に無意味にペンを叩き付けながら待った。暫くして、ノックもせずにシェネラが入室してくる。
「なぜ呼び出されたか、分かっているな? シェネラ」
ベネウィッツは憮然として言い放つ。だがシェネラは澄ました顔で答えた。
「さぁ? 身に覚えがないね」
「ふざけるな!!」
ベネウィッツは右の拳で机を殴り付けて立ち上がった。
「貴様!! 204とタキガワを追跡中だったバイオニックウェポン10体の全てを破壊したのを身に覚えがないとは言わせないぞ!!」
叫んだベネウィッツを横目に、しかしシェネラはまったく落ち着いたものだった。
「だからどうした? どうせバイオニックウェポン10体くらいじゃ204には勝てはしないさ」
ベネウィッツはその言葉に再び眉をつり上げた。
「いい加減にしろ!! タキガワに重傷を負わせたのはたしかに貴様だが、とどめを刺せない状況ではなかったはずだ!! 204も無力化できていたというのに取り逃がしおって!! そのあげくに明らかな造反行為だと!! 言い訳できるのならしてみろ!!」
シェネラは喚き散らしたベネウィッツを静かに見つめているだけだった。ベネウィッツはそれをシェネラが退いたと思ったか、なおも続ける。
「204に情が移ったのではなかろうな!? あれだけ恨み言を並べ立てておいてできませんでは済まんぞ!! それとも何か!? 204がなついているガキに貴様もほだされたか!?」
 ベネウィッツの叫びが既に罵詈雑言の類に変わっていたのを見て取ったか、それとも何か真実の一端を突いたのか、シェネラは途端に視線を鋭くする。部屋の空気が低い音を立てて震えた。ベネウィッツも思わず息を呑む。
 シェネラは低い声音で言い含めるかのように口を開いた。
「それぐらいにしておけよ。たかが人間風情が私を怒らせるな」
シェネラは視線を更に鋭くして続ける。
「BC-H204は私の獲物だ。だが204は今の所記憶処理が掛けられたままで実力を発揮できていない。そんな204を殺したところで私の気は晴れん」
「じゃあ何か? 貴様は記憶を取り戻した204と戦って勝つ、と?」
ベネウィッツは挑み掛かるような視線で言う。だがシェネラはその視線をものともせずに、毅然として言い放った。
「そうだ。204は、私が殺す」
シェネラはそれだけ言って数瞬ベネウィッツの視線を睨み返すと、きびすを返した。そのまま一直線に部屋から出ていく。乱暴に閉じられた扉が、廊下と部屋を隔てた。

Scene-5. 厚木基地・廊下

 「私が衿岡陽介にほだされただと………?」
シェネラはベネウィッツの執務室を出てから、ふとそんな言葉を呟いた。ベネウィッツに言われた罵詈雑言の一部だが、彼女自身がその言葉に激昂したのはたしかだ。それは自分でも分かる。
 だが、なぜ激昂せねばならなかったのか? その理由は? 隠している真実、自分でも気付いていない真実を人に言い当てられた時、人は自制の効かない混乱に陥る場合がある。理屈ではそうなるが、はたして真実の一端などと言うものなのか?
 シェネラは帰還して以来ずっと胸の中に巣くっている、正体の分からない鬱屈に次第に苛立ってくる。
「衿岡………陽介………」
シェネラは苛立ちの中、無意識にその名を口にしていた。途端に、自分を翻弄するほどの迫力と、今まで感じたことのない、言い様のない暖かさを伴って、衿岡陽介の姿が脳裏に浮かんだ。だが、その背後に常につきまとうようにBC-H204スイシーゼの姿が浮かぶ。
 その瞬間、明らかな疑問がシェネラの胸中を支配した。シェネラは思わずその疑問をストレートに口に出す。
「奴は、なぜ………ああも簡単にバイオニックチャイルドの存在を、204を受け入れている………?」
───好奇心?
選択肢が脳裏に浮かぶ。だが、それは違うと直ぐに知れた。好奇心だけで命を懸けて守るものか。
───ただ単純に利益があるのか?
それも違うと感じる。命を捨ててまで守ったとして、その利益を自分でどうにかできるわけでもない。そもそもバイオニックチャイルドの存在を利益に結びつける術などあるまい。
───研究材料?
たしかにバイオニックチャイルドは研究材料にはなる。だがそれは学者連中に対してで、たかが大学生の手に負えるものではない。
 結局、答えは見付からなかった。しかし新たな疑問が頭をもたげてくる。
「奴は204にしたのと同じように、私さえも受け入れることが出来るのか?」
だがシェネラは、その疑問に対する答えは得られないと感じた。204が衿岡陽介の側にいるかぎり、答えは得られない。そう思うと、204の存在が更にシェネラを苛立たせた。
「全ては204、貴様を殺してからだ………!」
シェネラは自分なりの答えを出すと、胸にある決意を秘めて再び廊下を歩きだした。

Scene-6. 新世紀科学研究所・資料室

 新科研に到着してから2度目の夜が更けていた。
 ハロルド博士は一人、資料室に篭って資料に目を通していた。その殆どが無知か似非科学、あるいは錯覚、空想虚言、思い込み等によって記されているニューサイエンス物の出版物。日本で刊行されたその手の本の殆どが新世紀科学研究所には保管されている。
 調べているのは、主に米軍が絡んでいる物だった。UFOは米軍が宇宙人との裏取引によって得た技術を使って秘密裏に作っている物だ、等という何の根拠もないようなものから、UFOは米軍が新型器の試験を隠蔽するために流した撹乱情報であるなどというものまで、ありとあらゆる文献を読み返す。
 目的はただ一つ、米軍の目的を推察する事だった。いくらバイオニックチャイルドが禁断の人間の遺伝子に手を出した産物で、その能力が軍事的に見て有用であるとしても、ソビエト連邦が崩壊して敵国も、仮想敵国も無くなってしまった米軍が必要とする物なのか。何より、軍備縮小が声高に叫ばれる昨今、極秘の新兵器の投入などが有り得るのか。
 所詮、確実性のない出版物の情報、推論もその域を出る物ではない。だがハロルド博士は自分なりの解答が欲しかった。

 なぜスイシーゼは執拗に狙われなければならないのか?

 「………所詮は客寄せ記事でしかないか………」
ハロルド博士はため息を付いて、本を書架に戻した。どの本もさして役には立たなかった。時には同じ作者でも本毎に全く別のことを言い切っている物さえある。何も考えていないか、本気で脳味噌が腐っているのかわからないが、信じてやっているとなると考え物である。
 某ディレクターが“カラスの死体はなぜ見付からないか”という問いに“反物質爆弾だからだ”と馬鹿げた答えを出した話は有名である。1グラムの質量が完全にエネルギーに変換されれば、それは関東大震災級のエネルギーである。軽く見積もっても1キロぐらいはあるであろうカラスの死体が反物質爆弾だったなら、地球はとうの昔に原子の塵に還っている。
 現実問題として似非科学の一分野───α波だ超能力だと言うのは考えるまでもなく似非科学の分野である───が目の前で展開されているとなると、その資料は極端に、と言うか殆ど絶無なほどに少ない。
 ハロルド博士が諦めて資料室を出ようとしたとき、不意に資料室のドアをノックする音が響いた。ハロルド博士は訝しげな表情で答える。
「どうぞ。鍵は開いている」
その答えに、ドアを開けたのは陽介だった。ハロルド博士は陽介の姿を見て、一瞬妙な違和感に包まれた。スイシーゼが一緒ではない。
「どうした? 陽介君が一人で行動しているのも珍しいな」
ハロルド博士は座っていた椅子を回転させて向き直ると言った。
「シーゼは寝ています。俺が居なくなったのは、まぁ気付いているでしょうけど」
「そうか」
ハロルド博士は呟くように言って、暫く沈黙を守った。陽介も暫く黙している。
「あの………」
沈黙を破ったのは陽介だった。
「なんだ?」
ハロルド博士は何となく陽介の言いたいことを悟りながら言う。陽介は覚悟を決めたか、小さく深呼吸してから言った。
「教えて下さい。シーゼは記憶を取り戻した後、どうなってしまうんですか? やっぱり真っ白な今のままではいられないんですか? 俺のこと忘れるようなことはないんですか?」
 ハロルド博士は、やはりなと内心ため息を付いた。黙っていても、耐えてはいても、陽介自身にとって唯一無二の存在であるスイシーゼが別の物に変わってしまうのは大きな不安要素なのだ。たとえ変わった先が元々の、本来のスイシーゼだとしても。
 ハロルド博士はしばらく考えるふりをしながら、言葉を探していた。記憶を取り戻すことに関して詳しいことは滝川博士から聞いていた。彼には、陽介には真実を語るべきだろう。
 ハロルド博士は決意して、真実を述べる一番簡単な一言を告げた。
「それに関しては、我々にも分からない」
「分からない?」
陽介は怪訝な表情を返す。
「そうだ」
ハロルド博士は立ち上がると、窓際に立つ。ブラインドを広げて、外界の街の明かりを資料室に導き入れた。
「元々、脳の記憶機構というのは謎が多くてな。我々にも未だ解明できてはいない。滝川博士の施した記憶処理に関しても、それが確実かどうかは分からない。事実、スイシーゼは記憶処理の前の記憶を一部取り戻した末にα波特殊能力を発動させたのだろう?」
ハロルド博士はそこまで言って、無言の陽介を窓ガラスの反射光越しに見る。そして続けた。
「可能性としては四つ考えられるな」
ハロルド博士はブラインドを閉じると、陽介に向き直ってから言った。
「まず一つ目。記憶処理を解いた後、過去の記憶と現在の記憶が同居して、何の問題もなく移行できる。これが一番望ましい」
「ええ………」
陽介は軽く相づちを打って続きを待つ。
「二つ目。記憶処理を解いた後、過去の記憶だけが残って、後から覚えたことは全て忘れてしまう。当然、陽介君との出会いも、生活もな」
陽介は息を呑んだ。彼が望んでいない可能性がそこにある。
「三つ目。記憶処理を解いても、記憶処理その物が失敗で、過去の記憶が戻らなかった。これは要するに現状維持だ」
ハロルド博士は深く深呼吸して、しばらく気持ちを落ち着かせると続けた。
「そして四つ目。これが最悪だが、記憶処理を解いた結果、その全てが失敗で完全な記憶喪失、もしくは記憶破壊が起こる。この場合、スイシーゼの今の人格も崩壊してしまう可能性がある。人格は記憶という土壌の上に後天的に成り立っているものだからな」
陽介はその可能性に、完全に絶句していた。そこまで最悪の可能性など、彼は予想だにしていなかった。
 ハロルド博士は絶句した陽介を気遣ったか、しかし視線を軽く逸らして続ける。
「可能性としてはまだあるが、他はどれも、今言った中の中間か、延長だ。だが、我々だって鬼じゃない。最も良い状態になるように努力している」
ハロルド博士はなおも絶句する陽介に近付くと、その両肩を強く掴んだ。
「心配するな。滝川博士がついている。彼はスイシーゼの生みの親であり、育ての親なのだ」
そう言って、陽介の肩を強く揺すった。陽介はそのハロルド博士の力に翻弄されつつ、呟く。
「記憶、どうしても取り戻さないといけないんですか………?」
陽介のその言葉に、ハロルド博士は動きを止める。だが、ややはねのけるような強い口調で言った。
「我々には、スイシーゼが記憶を取り戻すことが必要なのだ。我々が生き残るためにも。滝川博士のためにも」
陽介はその言葉には応えなかった。ハロルド博士の腕を振り払うようにして、無言で資料室から出ていく。
「陽介君………」
その去りゆく陽介に対して、ハロルド博士は掛ける言葉を見付けることが出来なかった。

Scene-7. 新世紀科学研究所・3階研究室

 「少し休んだ方がいいですよ。滝川博士」
下条は少し呆れた様な声音で言う。だが、滝川博士は制御キーボードが並んだ机にかじり突くようにして作業を続けていた。
 彼が製作しているのは、スイシーゼの記憶構造にメスを入れるための命令書にあたる部分だった。ハードウェアの関係は、持ち込まれた設計図を元に1階の工作室で日夜製作が続けられている。だが、日本工業規格でいう精級以上の精度がざらに出てくる各部品の製作は難航していると言わざるを得ない状態だった。
 滝川博士は荒い息を付きながら、なおもキーボードを打ち続ける。だが、ややあってせき込むのと共に吐血する。口を塞いだ掌に血糊が付くのが遠目にも見えた。
 下条は慌てて立ち上がると、滝川博士の体を支える。
「お願いですから博士、休んで下さい! 一日や二日で完成するほど簡単なシステムじゃないんですよこれは!!」
「………ああ………分かっている………分かっているよ、下条君………」
滝川博士は答えるが、しかしキーボードに向かう手は降ろされることはなかった。恐ろしいまでの執念と言うべきか。だが、下条はその執念で滝川博士自身がつぶれてしまうことを恐れた。
「ハードウェア側の製作も難航しています。少なくともあと一週間は掛かる見込みなんですから、ソフトウェアの方はゆっくりでいいんですよ!!」
下条は放っておくと何日も徹夜を敢行しそうな勢いの滝川博士に、少し語調を荒げて言った。
「………ああ………」
滝川博士はやっとキーボードから手を離すと、背もたれに深く寄り掛かる。下条は内心胸をなで下ろすと、自分ではまともに歩けない滝川博士に肩を貸して立ち上がらせる。滝川博士は下条に連れられて、研究室を後にした。

Scene-8. 新世紀科学研究所・客室

 資料室から戻った陽介は、努めて静かにドアを開けた。だが、彼の目に入ってきたのはベッドに上半身を起こしてこちらを見つめるスイシーゼの姿だった。
「起きてたのか?」
陽介は心の中の動揺を隠すように明るく言う。だが、無論そんな苦し紛れの小細工はスイシーゼには通用しなかった。
「どうしたの陽介? 何だかすごく震えてるよ………?」
スイシーゼは心配そうに視線を向ける。陽介はどう答えていいのか分からずに、無言のままベッドに近付くと、そっとスイシーゼの体を抱きしめた。
「陽介も………本当は恐いんだね………」
スイシーゼは陽介の心中を察したか、そう呟くと目を閉じた。

 陽介、スイシーゼ、滝川博士、ハロルド博士、そしてシェネラ。それぞれの心中などには構わず、時間は刻一刻と過ぎていくのだった。

Scene-9. 1999年6月11日 金曜日 新世紀科学研究所・3階研究室

 誰もが待ちわびていながら、誰もが恐れていた時が来た。突貫作業を如実に表すケーブル類の散乱の中、システムは完成したのだ。
 制御システムに司令を送るコンピュータ、制御システム、そして制御システムから何十本もの長いコードによって繋がれた厳ついヘッドホンのような装置が簡易寝台の上に置かれている。それを頭部に被って作業するであろう事は簡単に知れた。
 そのシステムの回りに陽介達は集まっていた。滝川博士はとうとうまともに体を動かすこともできなくなり、持ち込んだベッドの上で荒い息を続けている。失敗と成功に関わらず、作業が終わり次第病院に運び込む約束を取り付けていた。
 ハロルド博士は陽介の腕にしがみついているスイシーゼに向き直ると言う。
「スイシーゼ………。君の記憶を取り戻す準備は出来た」
スイシーゼは震えながら、陽介の腕に強くしがみつく。だが、陽介はそのスイシーゼを優しく引き離した。スイシーゼが陽介に哀願するような瞳を向ける。
「さぁ。始めるんだシーゼ」
「でも………」
スイシーゼは決心の付かない表情で周りを見回す。静かに視線を向けているハロルド博士に下条、荒い息で見つめている滝川博士、そしてその瞳からは意志を伺い知ることが出来ない陽介。
 陽介はスイシーゼの体を無理に反転させ、簡易寝台に向き直らせる。その途端、スイシーゼは再び陽介に振り向きざま叫んだ。
「でも、でも!! シーゼ忘れちゃうかもしれないんでしょ!? 陽介のこと忘れちゃうかもしれないんでしょ!?」
両の目から涙が溢れだし、頬を濡らす。陽介は複雑な感情を瞳に宿して、スイシーゼの体を強く抱きしめた。そして震える声音で静かに告げる。
 「忘れちまったら思い出させてやる………今度は俺が無理にでも思い出させてやるよ………絶対だ………シーゼが俺のこと忘れるなんてこと………絶対にさせやしない………」
スイシーゼは暫く目を閉じて、陽介の背中に腕を回していた。だが、ややあって自分から体を離すと、陽介の瞳を真正面から見つめて言った。
「シーゼが陽介のこともし忘れちゃったら………絶対に思い出させてよ………約束だからね………約束は破っちゃいけないんだよ………」
「ああ、約束だ。シーゼと俺の、絶対に破らない約束だ………」
スイシーゼはその陽介の言葉を聞くと、小さく微笑んで簡易寝台に向き直った。そしてコンピュータのキーボードの前に座った下条に向かって言った。
「シーゼ、始める………」

 スイシーゼは簡易寝台に寝かせられ、意識の安定のために麻酔薬を打たれた。その様子に、陽介は瞳を伏せる。暫くして、麻酔薬が効いたスイシーゼは軽い寝息をたてはじめた。
「始めますよ。滝川博士」
「………ああ」
下条の言葉に、滝川博士は短く答える。下条の手がキーボード上を走った。
「………脳波パターン計測………完了………解析開始………解析終了………記憶処理領域の確認………」
そこまで続けて、下条の手が止まった。滝川博士の方にゆっくり振り返って言う。
「脳の中にデータにない保護領域があります。こっちからアクセスするには精度と出力が足りませんが?」
その言葉にハロルド博士は視線を鋭くする。誰もそれには気付かなかったが。滝川博士は暫く考え、かるくせき込んでから答えた。
「………記憶処理領域にのみ目標を設定してくれ………余計なところは出来るだけ触れないようにしなければ………」
「分かりました。保護領域は保留して回避しつつ処理を続けます」
下条は再びキーボードに向き直った。
「記憶処理領域にプロテクトパスワード波形をピンポイント照射開始。出力固定」
なおも作業は続く。制御システムがアイドリング状態から活動再開し、スイシーゼの脳の記憶処理された領域に特殊な波動をぶつける。
「ニューラルネットワークの復元開始を確認、今の所、順調………」
永遠にも思える時が静かに流れていく。陽介は神に祈る気持ちで作業をじっと見守っていた。

Scene-10. 1995年9月20日 水曜日 ダルシィ基地地下研究所

 初めて感じるそのままの重力が、体に何とも言えぬ違和感を与えた。2本の脚だけで立っている実感が、足の裏、間接の一つ一つから伝わってくるが、どこか自分の物でないような感覚が支配する。
「どうだ? 初めて外界へ出た気分は?」
白衣を着た父、滝川博士が上から覗き込むようにして言う。
「う~ん………よく分かんないよ………」
軽く脚を動かして、片足立ちなどをしながら答える。
「まぁ、追々慣れていくさ。なぁ、シェネラ?」
滝川博士の隣に立っている男が、そのまた隣に立っている少女に向けて言う。
「うん。私も最初は歩き辛かったけど、直ぐに慣れたよ。だからスイシーゼも直ぐに慣れるよ!」
「シェネラ」
滝川博士の隣に立つ男がシェネラの肩を叩いた。
「なぁに? 大場おじさん?」
シェネラは笑顔を向けると言った。
「シェネラの時はおじさんがコーチしてあげただろ? だから今度はシェネラがスイシーゼに教えてあげる番だね」
「うん!」
シェネラは言うと、スイシーゼの手を取った。
「おいで、スイシーゼ! 私が教えてあげる!」
「うん! スイシーゼ頑張る!!」
生まれてから半年、自分の脚で地に立ったスイシーゼは元気に頷くと、手を引っ張るシェネラについていく。それを見送る滝川博士と大場博士には暖かい笑顔があった。

Scene-11. 1996年11月6日 水曜日 ダルシィ基地地下研究所

 「どうしたの? お父さん?」
スイシーゼは部屋に入ってきた滝川博士の姿を見て訪ねた。いつも幸せそうな暖かい波動を発している滝川博士の体から、今日は何か表現しにくい程の悲しみが伝わってくる。そばで日本語の子供番組を見ていたシェネラも、それに気付いて近付いて来た。
「おいで、二人とも………」
滝川博士は近付いて来た愛娘二人を強く抱きしめる。
「痛いよ、お父さん?」
スイシーゼの不平の声にも構わず、滝川博士はさらに強く抱きしめた。そして震える声で呟く。
「………お前達を戦いの道具になどされてたまるか………私はそんなことのためにお前達を生み出したのではない………お前達は私が守る………」
スイシーゼ達にその言葉の意味は分からなかった。だが悲壮とも思える決意が、波動となって滝川博士の体から流れ出しているのを確かに感じていた。

Scene-12. 1996年11月24日 日曜日 ダルシィ基地地下研究所

 スイシーゼとシェネラの前に、真剣な面持ちで滝川博士と大場博士が立っている。大場博士は二人の前に屈んで二人の肩に手を置くと言った。
「いいかい? よく聞くんだ。おじさん達はこれから大切な研究を始めるんだ。この研究はお前達や人間達の未来を守る大切なものなんだよ。分かるかい?」
スイシーゼとシェネラは互いに顔を見合わせる。大場博士はなおも続けた。
「お前達は自分自身が人間として暮らすために、戦わなければならないんだ。悪い人達とね」
「悪い人達って?」
シェネラは素朴な疑問を口にする。大場博士は軽く笑って、そして答えになっていない答えを言った。
「いつかきっと現れる。お前達や、お前達の愛する人達を傷つけようとする悪い人達がね。そんな悪い人達をお前達がやっつける。その為の力を作るんだよ」
二人はやはり理解出来ないのか、怪訝な表情を返す。
「今は分からなくてもいい。いつか分かる時が来るよ。その時のためにおじさん達に協力しておくれ」
「うん………」
スイシーゼとシェネラは、大場博士の言葉に曖昧に頷く。大場博士はその二人に、暖かい笑顔を向けながら言った。
「そうだ。お前達は人間の、私達の希望になるんだ」

Scene-13. 1999年5月12日 水曜日 ニューメキシコ州ロズウェル空軍基地

 大型輸送機の格納庫の中、人一人が入れるカプセルが二つ並んでいる大きな機材を前にして白衣の滝川博士とライダースーツのようなボディスーツを着たスイシーゼとシェネラが立っていた。滝川博士がカプセルの横のレバーを引き下ろすと、カプセルは空気圧式らしいアクチュエーターによって左右に開いていく。
「さあ、こっちはスイシーゼのカプセルだ。お入り」
「うん」
スイシーゼは不安げな表情でカプセルの中に入ると深呼吸した。その目の前、覗き込むようにした滝川博士は囁くように言う。
「前にも言ったが、上からの命令で記憶処理をした後、コールドスリープに入ってもらう。日本の上空で私がお前達を目覚めさせたら脱出だ」
「分かってるよ、お父さん。それからハロルドっていう博士のところに行くんだよね?」
スイシーゼは微笑んで言う。滝川博士も微笑み掛けると言った。
「そうだ。じゃあ、しばらくお休み、スイシーゼ」
「うん。お休みなさい、お父さん。お姉ちゃん、スイシーゼは先に休んでるね」
「ええ。お休み、スイシーゼ」
シェネラが答える。スイシーゼはそっと目を閉じた。それを見計らって、滝川博士がカプセルのハッチを閉じた。

 何もかも飲み尽くす闇の中、スイシーゼは新たな世界への旅立ちに胸を躍らせる。それがどんな過酷な運命が待ち受ける物なのか知ることもできず、闇の中に身を委ねていく。

 そして全てが終わった。

Scene-14. 1999年6月11日 金曜日 新世紀科学研究所・3階研究室

 記憶処理の解除は滞り無く終わっていた。簡易寝台の上で寝ているスイシーゼを囲むようにして、陽介やハロルド博士、下条を初めとする新世紀科学研究所のメンバーが覗き込んでいた。
 その視線の中、スイシーゼはゆっくりと瞼を開けた。覗き込む視線に一瞬驚いた表情を浮かべ、ややあって勢い良く上体を起こす。
「ここは………?」
呆然と呟いて、周りを見回した。周囲に立つ人々の顔が順に入っていく。
その視線が一点で突然止まった。ベッドの上で荒い息をしながらこちらを見ている男の姿。
「………お父さん………?」
滝川博士は目を見開いた。スイシーゼが呼んでくれた。“お父さん”と。
「………おお………! スイシーゼ………!」
滝川博士は震える声を絞り出し、毛布の下から腕を伸ばした。その瞬間、スイシーゼは簡易寝台から跳ね起きた。
「シーゼ!」
陽介が叫ぶ。だがスイシーゼは聞こえていないのか、一目散に滝川博士のベッドに駆け寄った。そして伸ばされた腕を取る。
「お父さん!!」
スイシーゼは叫んだ。その声が震えていた。額に脂汗を浮かべた滝川博士の傷の深さは直ぐに知れた。
「………呼んでくれるのか………私を………お父さんと………!!」
滝川博士の両の目から涙を溢れさせ、スイシーゼの手を握りしめる。

 スイシーゼは両手で滝川博士の手を握りしめ叫んだ。
「どうして!? どうしてお父さんが怪我してるの!? スイシーゼが寝てる間に何があったの!?」

 陽介の脳裏に電撃が走った。呆然としてスイシーゼの姿を見つめる。

 「ねぇ!! お姉ちゃんは!? お姉ちゃんはどこに行ったの!?」
「………スイシーゼ………!」
滝川博士もここに至って事態を把握したか、呆然と呟く。研究室中が静まり返った。
「それにここはどこなの!? カプセルがないよ!? お父さん!!」
スイシーゼの混乱した叫びだけが響いた。
「スイシーゼ………よく聞きなさい………」
滝川博士はそう言うと、途端にせき込んだ。
「お父さん!? しっかりしてよ!!」
「聞くんだ!」
滝川博士は痛む体を振り絞って叫んだ。スイシーゼは体を一瞬硬直させて動きを止める。
「お姉ちゃんは………シェネラは………悪い人達に掴まっている………スイシーゼが助けるんだ………ここにいる人達がお前を支えてくれる………」
「どうして!? どうしてお姉ちゃんが!? それにスイシーゼはこの人達のことなんか全然知らないよ!!」
スイシーゼは再び叫んだ。滝川博士は荒い息を繰り返し、辿々しい言葉を紡ぎだした。
「………守るんだ………スイシーゼ………お前の力で………お前の大切な………人を………」
「スイシーゼが大切なのはお父さんとお姉ちゃんと大場おじさんだけだよ!! 死んじゃやだよ!!」
滝川博士はしばらく目を閉じていた。荒い息をひたすらに繰り返し、整わない呼吸にせき込む。だが、辛うじて続けた。
「………思い出すんだ………お前にはいるはずだろう………? 大切な人が………」
「お父さん………」
両目から涙を溢れさせたスイシーゼは呟いて滝川博士の視線を見つめる。その視線は今にも力を失い、輝きを無くそうとしていた。
 「………陽介君………」
滝川博士はスイシーゼから視線を逸らすと、呆然としている陽介に向けて言う。愕然としながらも何とか意識を繋ぎ止めた陽介は、震える体を引きずるように滝川博士のベッドに近付いた。スイシーゼが涙に濡れた不安げな瞳を陽介に向ける。
「………すまない………私の力が足りなかった………だが………それでも………君がスイシーゼを愛してくれるのなら………頼む………」
「滝川博士………」
滝川博士は呟いた陽介から再び視線をスイシーゼに戻す。喉から息だけが吐き出されている、殆ど聞き取れないような声を絞り出し、滝川博士は言った。
「………スイシーゼ………シェネラにも………伝えておくれ………私は………いつまでも………お前達を………愛して………い………る………と………」
それが、滝川俊博士の最後の言葉だった。
スイシーゼの手の中から滝川博士の手が力尽きて落ちる。

 「お父さあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!」
スイシーゼの絶叫が室内を振るわせた。

 その瞬間、それは起こった。スイシーゼを中心に爆発的に光る球体が弾けるように現れる。

 その球体に弾き飛ばされた陽介は研究機材に背中から激突した。意識が一瞬消え掛かる。
「わああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
光球の中からスイシーゼの絶叫が聞こえる。その絶叫と共に、光球はさらに大きさと輝きを増し、周囲の機材を吹き飛ばした。
「………暴走か………!?」
ハロルド博士は光球が巻き起こす研究室中を吹き荒れる突風を堪えながら叫んだ。光球を中心にした光の渦が全てを弾き飛ばしていく。
「お父さあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!」
再びスイシーゼの絶叫が響いた。
「シーゼええぇぇっ!!」
吹き荒れる突風の中、叫びと共に陽介は立ち上がった。叩き付ける光の風を越えて、両の腕で顔面を庇いながら少しずつ歩を進める。
「陽介君!? 無茶だ!!」
ハロルドの叫びはしかし、陽介には届いていなかった。陽介は少しずつ、突風に逆らいながら光球に近付いていく。だが、吹き飛んできた機材が彼の体を直撃した。陽介は機材と共に壁まで飛ばされ、叩き付けられる。
「邪魔だああぁぁっ!!」
しかし陽介はその機材を両手で払いのけると再び立ち上がった。
「俺は約束したんだ!!」
更に威力をまして荒れ狂う突風の中、再び一歩を踏み出す。
「必ず思い出させてやる!!」
迫り来る力に押し戻されながらも、陽介の脚は一歩一歩確実にスイシーゼに近付いていた。
「絶対に破れない!! この約束だけはあぁっ!!」
また一歩。光球に近付くに連れ、突風は鋭さを増す。生じた真空の断層が陽介の体に幾筋もの傷を作った。
 だが、陽介は歩みを止めなかった。突風に何度押し戻されても、何度体を切り刻まれて血が滲んでも。陽介の歩みは止まらなかった。
「わああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
絶叫が響いた。光球は再び力を増し、荒れ狂う突風は光を纏って暴れた。陽介の体も再び押し戻される。だが、彼は両足で力の限り踏ん張る。
「うぅおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」
陽介も叫んだ。伸ばした手が光球に触れる。火花が走った。全ての物を拒絶するかのような激しい火花放電が光球の表面を伝って陽介の体に打ちつけた。

 光球の中、スイシーゼはただ感情のままに力を解放していた。歯止めの無くなった力が体中から溢れていく。

 全てを壊してしまいたかった。全てから逃げ出したかった。だから作った。心の壁を。だから逃げ込んだ。心の壁の内側に。

 全てを拒絶する心の壁は光の球となってスイシーゼを包んでいた。何物も寄せ付けないよう怒り狂って。

 だが、全てを拒絶する壁の向こう側から、何者かの声が聞こえてくる。何者かが心の壁の向こう側から、閉じた心の中に入り込もうとしている。

 暖かい、熱い。忘れかけていた温もり、安堵。

 陽介は体中を駆けめぐる激痛に失いそうになる意識を必至に繋ぎ止め、荒れ狂う光球の力に抗った。だが、壁は抵抗を止めなかった。陽介は壁を必至に押し返しながら、痺れて感覚の麻痺してきた五体の最後の力を振り絞った。そして叫ぶ。

 「シーゼええええぇぇぇっ!!!」

 ───陽介!?

 壁の向こう側から響いてきた声は、スイシーゼの脳裏で確実な像を結んだ。

 いつも優しく包んでくれる人。
 いつもそばで守ってくれる人。
 いつも暖かさを教えてくれる人。
 いつも限りない安堵を与えてくれる人。

 大切な人。

 その瞬間、心の壁は跡形もなく消え去っていた。

 「陽介えぇ………」
スイシーゼは、陽介の腕の中で号泣していた。傷だらけの陽介はしかし、優しくスイシーゼの体を抱きしめている。
 胸をなで下ろしたハロルド博士達の見守る中、陽介は、いつ果てるともなく続くスイシーゼの嗚咽を、ただ暖かく抱きとめ、包んでいた。

Scene-15. 厚木基地

 その瞬間、シェネラは脳裏を駆け抜けた鋭い痛みに眉をしかめた。次第に鋭さを増し、蝕んでくる痛みに立っていることすら難しくなる。最後には、シェネラは力無く壁により掛かっていた。
「なんだ………これは………?」
言い様のない痛み、だがその痛みは頭だけではなかった。
 心の痛み。何者かが外側から心の中に入ってくる感覚。
「………204………スイシーゼか………」
その瞬間、感覚が明確な像を結んだ。悲しみ。
「私の中に入ってくるなあぁぁっ!!」
シェネラは力任せにαブラストを放っていた。一瞬にして膨れ上がった力の奔流が廊下の壁を薙ぎ倒していく。
 不意に視界が歪んだ。それが溢れだした涙による物だと気付くのに数瞬の時間を要した。
「なぜ泣いている………私は………?」
頭の中をかき混ぜられているような混乱。自分でも分からない感覚がシェネラを覆い尽くした。
「どうして………悲しいの………?」
知らず知らずの内に、口調が力を無くしていた。
───助けて………!
今まで考えもしなかった感情が沸き起こる。誰かに助けてもらいたい、誰かに側にいてもらいたい。そんな感情はこれからも、これから先も抱くことはないと思っていたと言うのに。
 シェネラの中で何かが変わっていた。それを自覚した瞬間、全てが理解出来た。これはスイシーゼから伝わってきた感情。父を失ったスイシーゼの悲しみ。
「そう………死んだの………」
シェネラは呟くと、小さく含み笑いを漏らした。
「あなたも力を取り戻した様ね………スイシーゼ………」
押し殺したような笑いをしばらく続け、シェネラは不意に叫んだ。
「さぁ時は来た! お前から全てを奪ってやるよ! スイシーゼ!」
シェネラは虚ろな表情を天井に向け、大声で笑い出した。その哄笑は破壊された廊下をいつまでも響かせていた。