愛奉仕物語 愛音

プロローグ ~貴也~

 世の中、何があるか分かったものではない。実業家だった両親の突然の事故死。旅行の途中の山道で、ガードレールを突き破って転落した車は、情け容赦のない炎の中に消えた。
 そして、この私、神崎貴也の元に残ったのは相続税を払ってもなお残った三十億円にものぼる遺産だった。
 私は元々、親の事業を引き継ぐつもりはなかったし、親にもそのつもりはなかった様だ。親が興した事業は会社に残された重役達が引き継ぎ、私は名誉会長という役職に収まることになった。体のいいお飾りである。

 つい一ヶ月前まで私が暮らしていたのは、両親と私、それと数人の使用人達が暮らす豪邸だった。
 私には、広すぎた。
 その豪邸には、毎日のように親戚連中が押し掛けた。手に手に写真、そう、見合の写真を持って。口々に縁談を持ち込む。そりゃあそうだろう。三十億もの大金が銀行口座を潤すだけで燻っているのだから。

 だが、私は事業目当ての政略結婚などに興味はない。古いしきたりに雁字搦めにされている会社ではないのだ、勝手に事業提携でも結べばいい。私のいないところでやってくれ。

 むなしい生活だった。かつて親と住んでいた豪邸は、私には広すぎて、その広さは病みつつあった私の心を蝕むに格好の舞台だったのだ。

 私は、そのむなしい生活から決別するため、一生独身で過ごす決心をすると山奥の避暑地に一軒の洋館を建てた。
建築業者に見積もりと設計を任せたら、今までの豪邸ほどではないにしろ随分と分不相応に大きい物が出来てしまったが。

 まぁ、いい。

 三十路前の私は早くも俗世間に別れを告げ、一人洋館へと向かった。これから一生、好きな絵画でも描いて暮らしていく。おそらく、遺産はかなりの額が残るだろう。それならそれで、誰かに勝手に搾取されるのも癪にさわるから死ぬ間際にユニセフにでも送りつけてやることにしよう。

 しかし、自分が情けなくなったのは一人でこの洋館に住みだして一週間後だった。確かに今まで一人暮らしの経験はない。家事一般は全て使用人がやっていたし、私は学生として日々を過ごせば良かっただけだ。情けない話だが、一人暮らしというのもなかなかに面倒くさい。それに、この洋館は私一人で管理するにはいささか大きすぎたようだ。

 仕方ない。思い立った私は洋館に一人だけ、一人だけでいい、使用人を雇うことに決めた。偶然見つけた、まぁこんな洋館を狙って広告を送りつけてくるのだろうが、広告に載っていた『有限会社メードサービス』というメイド派遣の会社に連絡を取った。
 何せ僻地だ。交通の便も悪ければ、人とふれあう機会もない。そんな場所に人が来るかと危ぶんでいたのだが、殊の外簡単に快い返事が返ってきた。何を根拠にそう言ったのかは謎だが、私に丁度よい人材がいるという。
 そして今日はそのメイドが来る日。事前に渡されたメイドの紹介文に目を通す。
 『椎奈愛音、年齢十九歳。奉仕の心を旨とする有限会社メードサービスにおいても並ぶ者のない献身的な働きを保証する有能なスタッフです』
 そう簡単に書かれている。同封されている写真には、はにかんだような笑みを浮かべる少女の姿があった。

坂道 ~愛音~

 すっごい山の中にあるんだなぁ。それが愛音の第一印象でした。電車を降りて、やっと捕まえたタクシーで山の中に入ること一時間。ものすごい料金取られたのに、まだ着いてない。ここから先は私有地で、入っていけないって。

 でも………洋館なんて全然見えないよぉ~

 とりあえず、一本道みたいだからひたすらに上っていく。道はきれいに舗装してあって歩きやすいけど、ずっと上り坂。いくらメイドとして訓練された愛音の足でも、しんどいです。
 何度か休憩して進んでいくと、森が少し開けた場所があって、その洋館はあったんです。今をときめく神崎グループ名誉会長のお宅だっていうから、ものすごい大きな洋館を想像していたけど、それほどでもないみたいです。

 あ、でも東京で見たら「おっきな御屋敷だなぁ~」って思うでしょうけどね。

 白い壁に囲まれた二階建て。でも大きな屋根裏部屋があるのかな、屋根に窓が見えます。窓はどれも大きくてきれい。洋館全体が南側を向いていて、日当たりはとってもよさそうです。
 きっと、ここで干したシーツはとっても寝心地いいですね。お洗濯物もよく乾きそうです。お食事は、時々は山菜なんか取ってみるのもいいかもしれません。

 ………って、いっけない! 見とれていないで御主人様に御挨拶に伺わないと。なんてったって、愛音の“初仕事”ですからね、粗相のないように頑張らないと。

 玄関は大きな木のドアになっていて、ライオンさんがくわえてる輪を使ってノックするみたい。さてと、深呼吸して………

出会い

 主人一人には広すぎる洋館に、低く響くノックの音が通り抜けた。とは言っても、飛び出してくる使用人がいるわけではない。ノックの音の主が、おそらく次の日からその役目を仰せつかることになるだろう。何にしろ、暫く返事はなかった。

 玄関から一番奥深くの部屋、そこに彼のアトリエはある。その趣味がなければむせ返るほどの絵の具のにおいに囲まれていた洋館の主人は面倒くさそうに絵の具で汚れたエプロンを外した。男にしては繊細な手つきで畳むと、サイドテーブルに置く。
「来たかな」
貴也は誰にともなく呟くと、描きかけの絵に一瞬だけ視線を飛ばしてからアトリエを出た。

 廊下は一直線、途中に幾つかの部屋があり、玄関ホールには二階へ上がる階段がある。厨房は食材庫と共に地下にある。浴室は見晴らしの良い二階の奥。そして部屋の中の半分が彼のアトリエで、残りは書斎と寝室にリビング、そして今日から来ることになっているメイドの部屋。何にしろ、この洋館はそんなところである。無論、俗世間から離れた洋館に客室はない。

 玄関ホールに着く。ノックの主は待たされることになれているのか、たっぷり二分はかけてやってきたというのに二度目がない。だが、玄関の重い木扉の向こう側に待っていることは簡単に知れた。

 「どなたかな?」
こんな洋館に予告無く訪れる者がいるとも思えないが、貴也は通過儀礼のごとく言う。緊張したのか、石畳に靴底を軽くぶつける音が聞こえた。そして答えが返ってきたのは数瞬の後だった。
「有限会社メードサービスから派遣されて参りました、椎奈愛音と申します。こちらは神崎貴也様のお宅でしょうか?」
通りのいい、澄んだ声だった。訓練の賜物か淀みもふるえもない。
 貴也は迷うことなく扉を開けた。やもすれば、扉の陰に隠れてしまったのではないかと思えるほど小柄な少女が、写真と同じはにかんだ笑みを浮かべて立っている。
「来てくれたか」
貴也は久方ぶりに他人に見せる笑顔で少女を迎える。少女は小さく深呼吸して、深くお辞儀する。
「初めまして。今日から働かせていただくことになりました椎奈愛音と申します」
そう言って上げた顔に、先ほどまでのはにかみはなくなっていた。かわりに満面の笑みをたたえて言う。
「よろしくお願いします。御主人様!」

日常 ~貴也~

 まさかこんな娘が送られてくるとは思わなかった。それが今の私の感想である。

 愛音の朝は早い。日が昇る前に起きているのではなかろうか。少なくとも私よりも後から目覚めたためしはない。無論、愛音の寝顔を見たこともない。
 朝、朝食の準備が出来てから私を起こしに来る。私としても自分で起きられないわけではないので、愛音が部屋の前に立つ頃は着替えも済ませてある。
「御主人様、朝で御座います。朝食の準備も整っておりますので食堂へお越し下さいませ」
「ああ。ありがとう」
これがいつもの朝の、言わば日課である。

 昼間ともなれば朝食の片づけを終えると直ぐに洗濯にはいる。とは言っても私と、愛音本人の洗濯のみ、量は多くはない。同時にベッドのシーツやらを干す。その合間に庭木に水をやり、目に付く飛び出した枝を切っている。

 昼食は軽く取るだけにしている。朝食をまっとうに食べていれば問題はない。

 午後になると夕食の献立に沿って下の食料品店に注文を済ませる。その頃には洗濯物もいい頃合いになっており、愛音はパタパタと駆け回って取り込み作業に入る。
 午後三時のティータイムには、私の希望でハーブティーを二人で飲むことにしている。たった一人の主人と、たった一人のメイドならば、以前の使用人のように食事を別々などと面倒くさいこともする必要はないから食事は一緒のテーブルに着くことにしている。そしてこのティータイムが愛音の三度目の休憩となる。

 彼女は私のする絵画の話をさも面白そうに聞いてくれる。そう訓練しているからなのか、彼女自身興味があるのかは知らないが、俗世間を離れると同時に人との接触の機会を失った私にとっては助かる存在ではある。

 夕方になると昼間に注文していた食材が届く。それと共にティータイムが終わり、愛音は厨房に籠もる。何度か料理をしている愛音の姿を見ようとしたのだが、彼女に言わせると「御主人様は厨房に入るべからずです」なのだそうだ。笑って言うものだからどこまで本気か分からないが。

 そして夕食。今まで一ヶ月を愛音と共に過ごしたが、一度も献立がバッティングしていない。料理の腕自体も大したものだ。たしかに料理だけを専門にこなしている料理人に比べれば劣るのかも知れないが、それでも愛音の腕は充分に通用する。

 そして夕食の後片付けが終わると食後の運動だとでも言わんばかりに館の中の小物、私の絵の入った額縁や、階段の手すりなどを磨き出す。全体の掃除は毎日に分割して行っているらしい。

 何にしろ、愛音は殆ど休んでいない。たしかに、古い時代のメイドはそれこそ馬車馬の様にこき使われたと言うが、私にはそんなつもりは無論ない。紹介文に『献身的な働きを保証する』と書かれていたが、偽りはなかったと言うことか。

 しかし………彼女は、愛音はどうしてこの若さでメイドなんて人に使われるだけの滅私奉公のような仕事を選んだのだろうか。大学にも行っていないだろう。
 何となく、知りたくなってしまったな。愛音に興味を持ったのか、単なる好奇心か、今ひとつ判断しかねるが。まぁ、次のティータイムにでも聞いてみることにしよう。

日常 ~愛音~

 なんだか、安心しちゃいました。御主人様がとっても優しい方で。だって、神崎グループの若き名誉会長って肩書きだったから、もっと気難しい人かと思ってたんです。でも、会ってお話ししてみて、一ヶ月間御奉仕してみて思ったんです。優しい方なんだなって。

 だけどとってもまじめな方なんです。何日か前に、御主人様の御趣味の絵画の話をして下さったんです。愛音が御主人様の絵を
「とても綺麗です」
って言ったら、御主人様は首を横に振られて仰いました。
「ありがとう。だがね、私は自分の絵に納得したことは一度もないよ」
御主人様は筆をお止めになって椅子に腰掛けられると、笑って、でもとっても真剣な表情を愛音に向けられました。そして、
「絵画、いやそれだけではないな。芸術、何かを創造するという事に終点はないんだ。もちろん正解もない。厳密に言えば、うまい絵も、下手な絵もないと思う。絵が、描いた人間の表現手法ならば、価値観の違う他人が優劣を付けられるものでもないんだ。だから、私は私の作品に納得はしない。ある程度の自信は持つが、過剰になってはいけないしね」
と答えて下さいました。とってもまじめに考えている方なんだなって、ちょっと感動しちゃいました。

 それと御主人様、絵画の話をされるときはとっても楽しそうにしているんです。なんだか、愛音まで絵を描きたくなってきちゃう様な感じがして、少し不思議な感じです。

 あ、そうそう、アトリエに行ったときに御主人様が言って下さったんです。
「今は風景画に凝っているが、人物画も描きたいと思っているんだ。その時はモデルになってくれないか」
って!
 愛音なんかでいいのかなって思ったんですけど、とっても嬉しくって。胸がドキドキして。その日は何だか仕事が手に着きませんでした。厨房ではお皿を割っちゃうし、御主人様は笑って許して下さいましたけれど。

 でも、時々思うんです。御主人様はここで何をしていらっしゃるのだろうって。

 御屋敷に来てから御主人様以外の人と言ったら、毎日お料理の材料を届けて下さる地元の商店のおじさんだけ。御主人様はずっとお一人なんです。どうしてなんだろう?

 あ、でもメイドは余計に御主人様の事情を詮索しないのが鉄則でしたね。社則に書いてありますもん。ん~ん、でも、ちょっと気になるかな、えへっ。

日常

 ティーカップに注がれたハーブティーの芳しい薫りがテラスを満たした。白いテーブルに白い椅子、白いテーブルクロスと白づくしのテラスには、二人だけのいつもの風景がある。

 愛音は貴也のティーカップにハーブティーを注ぎ終えると、貴也の席と反対側にあるもう一つの席、自分の席の前のティーカップに同じように注ぐ。そして静かな動作で椅子に腰掛けた。それを待ってから、貴也はハーブティーに口を付けた。
「いい味だ」
お世辞でなくそう思う。愛音のいれるハーブティーはその湯加減から濃さ、薫りの強さに至るまで貴也の趣向に合わせてあった。
 愛音も安心してハーブティーに口を付ける。その様子を貴也が面白そうに眺めていた。それに気付いた愛音が怪訝な表情を返して言う。
「いかがなさいました? 愛音の顔に何か?」
「あ、いや、そうじゃない」
貴也は少し慌てた素振りを見せてから、おもむろにティーカップをおくと、正面から愛音の視線を見つめる。
「な、なんですか?」
少し緊張したか、ドギマギしている風の愛音の仕草が可愛らしい。
 その仕草をからかうようにたっぷりと観賞してから、貴也は不意に切り出した。
「ん、少し気になったんだが、愛音はどうしてその歳でメイドなんて仕事を始めたんだ? 他にも選択肢はあったろうに」
その問いに、愛音は一瞬呆気にとられたらしい。暫く惚けたような表情をしてから、少しうつむいてしまう。
「いや、言いたくないならいいんだ。無理に詮索はしないよ」
慌てて取り繕った貴也の目の前で、愛音は小さく微笑を浮かべていた。
「いいえ。愛音の始めての御主人様になられた貴也様には聞いて欲しいです。よろしいですか?」
「ああ。いいよ」
軽く返事をした貴也だったが、愛音の次の一言に動きを止めることになる。

 「愛音は、孤児なんです」
その言葉に、ティーカップを弄んでいた貴也の手が止まった。聞いていいのか、という視線が愛音に向けられるが、愛音は構わずに語り続ける。
「生まれて間もなく、孤児院の前に捨てられているのを、愛音を育てて下さった院長先生が見つけて下さいました。それから愛音はその孤児院で暮らすことになったんです」
愛音はテーブルに置いたティーカップに視線を落として一呼吸入れる。その仕草が貴也の胸に突き刺さった。
「名字の椎奈は院長先生の姓を頂きました。名前は院長先生が愛の福音に恵まれますようにって名付けて下さいました」
愛音の表情は幸せそうだった。他人が聞けば暗い過去にしか聞こえない話だというのに、彼女はどこか幸せそうだった。
「院長先生はいつも愛音の両親を捜して下さっていました。けれど、生まれて間もない愛音を捨てたんですから、見付かるはずがないですよね。でも、愛音は両親を恨んでなんかいません。きっと止むに止まれない事情があったんです」
そこまで語って、愛音は不意に館を囲んでいる森に視線を飛ばした。遠くを見つめる視線に、今度は明確な悲しみの色が見て取れた。
「そりゃ、孤児院の出ですから、小学校では虐められました。中学校でも似たようなもので。高校だと同情に変わっていましたけど………何を今更って感じで………。大学は………なにせ孤児院ですから、学費がまかなえませんよね。国立なんていける程、頭良くないですし………。どちらにせよ、お金がかかることに変わりはありませんものね」
愛音の表情は悲しみから寂しさへと変わっていた。

 貴也は何か明確に自分とは違う何かを愛音の中に見ていた。自分は五体満足になるまで両親に守られていた。たしかに、両親を不慮の事故でなくしてから何もかも変わってしまったが、失った貴也と最初から無かった愛音、どちらが不幸なのか。もしくは、どちらが救われているのか。

 何にしろ、愛音の言葉は核心へと続いた。視線を貴也に戻し、今度は屈託のない笑顔を向ける。
「でも、院長先生は愛音が泣きながら帰るといつも励まして下さいました。人より多くの悲しみを知った分、人には優しくなれる女の子に成りなさい。私はいつも愛音の味方だよって。その時は言葉の意味がよく分からなかったんですけど………高校になって始めて分かったような気がして………」
語り続けてのどが渇いたか、愛音はティーカップに小さな口を付けてハーブティーを少しだけ飲み込む。そして続けた。
「変な話………どんな仕事でも良かったんです。ただ、人の役に立てる仕事に就こうって思って。小さい頃から孤児院で家事をこなしてきましたから、他の子より家事に強い自信はありましたし………」
「それで、メイドを?」
貴也の言葉に愛音は小さく頷いた。
「偶然だったんです。偶然、人材募集の広告を見付けて」

 愛音はそこまで言って、小さく舌を出して笑った。貴也は何か肩透かしを喰らったような感覚で目を白黒させる。
「愛音とっても不安だったんですよ。メイドってハードなお仕事だって聞かされていましたし、御主人様になられる人が非道い方だったら大変だって。しかも初仕事が人里離れた洋館で、御主人様とメイドの二人っきりなんて………」
言ってしまってから、何か思うところがあったのか愛音は頬を若干染めて俯いてしまう。そしてそのまま上目遣いに自分の主人、貴也を見つめて言った。
「でも、よかったです。最初の御主人様が貴也様のようなお優しい方で」
「そ、そうか………」
そう言われて貴也としても悪い気はしない。

 何かつきあい始めたばかりの恋人同士の、むず痒いような沈黙の中で貴也は愛音を見た。その視線が愛音のそれと合う。二人共が何も言い出せない沈黙の中、数瞬が過ぎた。

 ノックの音が聞こえたのはその時だった。愛音はハッと我に返って左手の時計を見る。
「あ、おじさんがくるにはまだ早いですね………。お客様でしょうか?」
愛音はそれだけ言って立ち上がった。
「見てきます」
「ああ、頼む。客だったら………、そうだな、リビングにでも通しておいてくれ」
「はい。かしこまりました」
愛音は軽く会釈すると小走りにテラスを出ていった。

 残された貴也は一人、冷めてしまったハーブティーを流し込んだ。小さく一息入れて、誰に聞かせるでもなく呟く。
「聞いてしまって、よかったのかな………」

激昂

 「どちらさまでしょうか?」
愛音は玄関の扉を少しだけ開け、来客を確認する。立っていたのは少し小太りの中年の男だった。
「私は神崎貴也の親戚で、西條と言うものだが、貴也は今いるのかな」
横柄な物言いをする男だった。愛音は内心ムッときてはいたが、主人の客に対して非礼を働くわけにもいかない。愛音は静かに西條を名乗る男を招き入れる。
「どうぞ、御主人様のところに御案内致します」
「ああ」
やはり西條は横柄な態度で答える。

 愛音は西條を連れ、リビングへと進んだ。この西條という男に対する生理的な嫌悪感が愛音の体を支配している。
「フンッ、まだクソの役にも立たん絵画など続けておるのか」
廊下に飾ってある、額に入った貴也の作品を一瞥して、西條が小声で喚く。その言葉に愛音の肩が震えた。

 愛音にしてみれば運が悪かったと言うほか無い。一瞬の肩のふるえを西條に見られてしまったのだ。
「きゃんっ」
突然西條は愛音の肩を後ろから掴むと壁に押し当てた。その愛音に正面から乗りかかる様な格好で、西條は愛音の肩を壁に強く押しつける。
「何か言いたいことがあるようだな、メイド」
西條はそう凄むと、いやらしさを隠そうともしない視線で愛音を上から下まで舐めるように見つめる。流石に堪えきれずに愛音は西條をにらみ返した。その瞬間、西條の右手が愛音の左肩から左の乳房に伸びた。メイド服に包まれた愛音の胸を強く鷲掴みにする。
「痛っ………」
駆け抜けた痛みと気持ち悪さに愛音は唇をかむ。だが西條は容赦なく、為す術のない愛音の胸を上下に揉むと、いやらしい表情を向けた。
「よく見ればいい体をしている。歳も若いな。この体で貴也の夜の世話でもしているのか? ん?」
「そんなこと………!」

 「何をしているっ! 愛音から離れろっ!」
愛音が思いっきり叫ぼうとした瞬間、リビングの扉を開けた貴也の屋敷を振るわす程の激昂が響いた。西條はいやらしい笑みを浮かべたまま愛音の体から離れる。
 貴也は一直線に歩いてくると、西條を押しのけて自分の体を抱きしめて震えている愛音の肩を優しく掴んだ。
「大丈夫か? 愛音」
「は………はい………」
愛音は動悸の収まらない胸を必死に落ち着かせながら答える。貴也は自嘲の籠もった笑みを浮かべた。そして愛音だけに聞こえる小声で囁くように言う。
「すまなかった。落ち着いたらお茶を入れてくれないか。そう、一番まずい奴でたのむ」
貴也はそう言うと、愛音の背中を厨房の方へと押しやる。愛音は一瞬だけ振り返ってから小走りに厨房へと走っていった。

 「さて、随分と手荒なことをやってくれたな。あんたには礼儀という物がないのか?」
貴也は今まで見せたこともないような凄みのきいた表情と声で言う。並のチンピラならそれだけで竦み上がってしまうような迫力だった。西條は一瞬気圧されたようだが、すぐにいやらしい笑みを取り戻して言った。
「今日はいい話を持って来たんだ。聞くだけ聞いてみろ」
「あんたも、しつこいな」
貴也は侮蔑の籠もった声でそう吐き捨てた。

激昂 ~愛音~

 非道い! なんて人なの! 気持ち悪いの、まだ収まらないよ………!

 厨房の中、愛音は震える体を抱きしめたの。思い出すだけで気持ち悪い。御主人様が助けてくれなかったら愛音は………

 でも、あんなに怖い表情をしている御主人様は始めてみました。きっと、あの西條とか言う人に今までも非道い事されてきたんだろうな。
 うん、御主人様も一番まずい奴って仰っていたし………思いっきりまずいお茶いれちゃうんだから! だけど御主人様はハーブティーを、っと。へへ、愛音だって意地悪するときはするんですよ。

 さてと、準備もできたし。トレイに乗せて、あんまり御主人様をお待たせしちゃいけないし。

 厨房から一階へ上がる階段が重苦しいです。何だかリビングの中の状況が手に取るように分かるみたい。きっと御主人様、怒った顔であの人の前に座ってるんだと思う。

 リビングルームの扉の前。軽くノックする。
「お茶をお持ちいたしました」
「どうぞ」
御主人様の答えは直ぐに返ってきました。愛音は静かに扉を開けて、リビングルームに入ります。
「失礼します」
軽く会釈して、テーブルの上にお茶を置く。まずいお茶と、御主人様用のお好みのハーブティー。

 ティーカップを置くとき、御主人様の表情が見えたの。凄く怖い顔をしていらっしゃる。愛音には一回も見せたことのない表情。見たくないですけど。
 御主人様は終始無言で、きっと愛音には聞いて欲しくない話なんでしょうね。愛音はティーカップを起き終えるともう一度会釈して部屋を出ました。
「失礼しました」
そう言って扉を閉めました。

 「いい加減にしてくれっ!」
きゃっ!
 扉を閉めた途端に御主人様の激昂が響いて、愛音は思わず立ちすくんでしまいました。だって凄い声………
「こんなにいい話は無いぞ」
あ、あいつの声だ。何かを開いてる音が聞こえる………あん、聞き耳立てちゃいけないって分かってるのにぃ………
「相手は業界をリードする金光不動産の社長令嬢で箱入り娘だ」
えっ? それって政略結婚? 御主人様って政略結婚迫られてるの? そんな非道い!
 テーブルを叩く凄い音。ティーカップが飛んじゃったみたい。倒れて転がる音がする。きっと御主人様だ。
「何度も言わせるな! 私は事業目当ての政略結婚なんてするつもりはない!」
そうよ! 政略結婚で好きでもない人と結ばれたって幸せになんかなれるわけがないもの!
「事業興すのは勝手だが私のいないところでやってくれ! そういう話はウンザリなんだ!」
………え………私のいないところ………? ウンザリ………? じゃあ今までも何度もこんな話が………? もしかして御主人様がこんな山奥で一人でお暮らしになっているのってこういう話から遠ざかるため………! そんな………そんな………!
「フンッ、私は神崎家の財産を遊ばせておくつもりはないからな! 覚悟しておけよ!」
あんたなんか知らない! 御主人様に非道いことしないでよ!

 「きゃっ!」
扉の前でずっと聞き耳立ててたら突然扉が開いて、愛音はその扉にぶつかってしまいました。出て来たのは西條でした。西條は愛音のことを見付けると一瞥して廊下を大股で歩いて帰っていきます。送ってなんかあげない! 勝手に帰りなさい!

 「扉の前で聞いていたみたいだね、愛音」
あ………リビングルームから御主人様の声。聞き耳立てちゃった悪い愛音はきっと怒られる………怖い表情をした御主人様に………
 愛音は静かにリビングルームに入って深く頭を下げました。言い訳なんか出来ない、聞き耳立てちゃったのは事実なんだから。
「も、申し訳ありません………」
「別に、いいさ」
だけど御主人様は全然怒らないで、ティーカップを弄んでる。あ、倒れたのはまずいお茶の方なんだ。

 御主人様は悲しそうな視線で、窓の外を見ていました。何か言いたそうにしてる。でも、愛音には何もできないですよね。ただ空になった御主人様のティーカップに新しいハーブティーをお入れするぐらいしか………。

 「両親が死んで半年………」
不意に御主人様は口を開かれました。凄く悲しい声で。
「親戚からの話と言えば遺産だ政略結婚だ………」
御主人様はずっと、そんな辛いことをお一人で耐えてこられたんだ………これからも、ずっと続くのかしら………
「私はもう………ここにいない方がいいのかもしれない………」
えっ………? そんな………そんなこと………! 胸のふるえが止まらない、涙があふれてくる! 嫌だ! そんなこと言っちゃ嫌!

 不意に、何かが愛音の瞼に触れました。
 あ、ハンカチ………御主人様の………愛音、泣いちゃったんだ………
 「私のために泣いてくれるのか………愛音は優しい娘だな………」
御主人様はそう言って愛音の涙を拭ってくれるの。だけど涙は後から後から溢れて止まらない。
 だって、そんなの悲しすぎます! 御主人様がおかわいそうすぎます! 愛音にできるのなら、御主人様の支えになってあげたい………だって愛音は御主人様をお助けするメイドだもの………!

暗躍

 夜も更けていた。洋館の周りは窓から漏れる少ない光が照らすのみで暗い。そのかわり星灯りはよく見えたが。

 その暗闇の中、数人の男達が身を潜めていた。一人は小太りの中年、背広を着ている。残る二人は全身を光を反射しない布地で覆っている。まるでスピードスケーターの様な出で立ちであった。だが、その脇腹にはホルスターがぶら下げられ、拳銃が入っている。

 「分かっているな。貴也の餓鬼をメイドと一緒に心中に見せかけて、殺せ!」
小太りの男の言葉に男達は頷いた。
「わかってますよ。両親に先立たれて遺産相続問題に巻き込まれた青年が、唯一心を通わせるメイドと共に心中。発見は大分送れるでしょうから、まぁ一週間後の一面でも賑わせることになるでしょう」
男は口の端をつり上げさせる。
「よし、行って来い」
小太りの男の一言に、男達は音もなく駆け出した。洋館の電気がついている部屋、二階のアトリエめざして。

危機

 アトリエで筆を執る貴也は、画板に向かったまま止まっていた。被写体に選んだ果物は画板の向こうに整然と並んでいる。だが、画板は白いままだった。何か彼の中で変わり始めている。こんな果物ではない。彼が描きたいのは風景でも果物でもなくなった。

 「明日にでも、愛音にモデルを頼んでみるかな………」
小さく呟く。誰に向けたわけでもなく、誰かの返事を待っていたわけでもない。
 だが………
「残念だが、それは無理な相談だ」
「なっ!」
突然予想だにしていない方向、真後ろからの声に貴也は慌てて振り向いた。窓が開いてる。それを確認した瞬間、腹部に鈍い激痛が走った。一瞬意識が消えかかる。だが何者かは情け容赦なく貴也の体を打ち据えた。
「ぐっ………」
うつぶせに強くたたきつけられる。相手は格闘の心得があるのか、倒れた貴也の腕を背中にねじり上げた。

 「貴様達………なんのつもりだ………!」
必死に絞り出した一言。だが、彼を組み敷いている男は表情一つ変えずに答えた。
「あんたが生きていると困る御仁がいらっしゃってね」
貴也は目を見開いた。心当たりなら、ある。
「西條か!」
「クライアントの秘密は保持する、それが暗殺者の心得でね」
自ら暗殺者を名乗った男は凄絶な笑みを浮かべた。

 「御主人様、どうなさいました?」
タイミングが悪すぎると言わざるを得まい。都合悪く真下の部屋にいたか、近くにいたのか、アトリエの騒動を聞きつけてきたらしい愛音の不安げな声が届く。その瞬間、貴也を組み敷いているのとは別の方の男が扉に走った。
「逃げろ! 愛音ぇ!」
貴也の絶叫はしかし、確実に遅かった。勢い良く扉を開けた暗殺者は驚いて立ちすくんでいる愛音の腕を強引に引っ張ってアトリエの床に叩き付けたのだ。
「きゃあっ!」
愛音は短い悲鳴を上げて為す術もなく床に倒される。うつぶせに倒れた愛音の背中に、貴也にしているのと同じように腕を極めた暗殺者がのしかかる。
「い、痛いっ!」
「愛音には手を出すな!」
だが、暗殺者達はその絶叫には構わず、貴也と愛音を背中合わせに引き寄せるとその両手を一本のロープで後ろ手に縛り上げた。

危機 ~貴也~

 あいつがここまで非道な手段に訴えてくるとは………

 私は悔しさに唇をかんだ。私の命も、私の財産も、そんな物はいくらでもこの際くれてやる。だが………

 愛音だけは………愛音だけは助けたい………

 肩越しに後ろを見やる。後ろ手に縛られた手が愛音の手を探り当てた。愛音の肩が震えた。
「………御主人様………」
か細い、切なげな声が聞こえた。

 くっ………この二人を縛っている戒めさえ解ければ、刺し違えてでも愛音を守るというのに………!

 「さて、心中に見せかけなけりゃならんからな、どうする?」
私達の目の前で暗殺者達が悠長に話している。
 何が暗殺者だ! どうせ金で雇われたどこぞのチンピラだろうが! しかし、毒づいてみたところでこの状況がどうなるわけでもない。

 どうする? 考えろ! 考えるんだ! 愛音さえ助けられればいいんだ! たったそれだけだ! それだけできれば後はいい! 考えるんだ!

 「しかし、芸術家って奴か? 色々と狭い部屋に放り込んであるモンだぜ」
暗殺者達の雑談が聞こえる。完全に勝った気でいやがる。
「こりゃ? へぇ、うまいもんだな。この林檎か?」
私の画板を見た暗殺者が言う。林檎のデッサンを鉛筆で描いた画板だ。

 ………鉛筆! そうだ! その手があった!

 私は腕を必死に動かしてズボンの尻のポケットに手を突っ込んだ。
 やはり、あった!
 鉛筆を削るためにいつも持ち歩いているナイフだ。私はナイフを開くとロープに押し当てた。
「愛音………」
肩越しに話しかける。愛音は肩をピクリと振るわせて答えてきた。
「御主人様………?」
不安げな声。だが私は続けた。
「愛音にはすまなかったと思っている。最初から私が全財産を捨てていれば良かったのだが………」
「おいおい、御主人様とメイドが最後の愛の言葉を交わしてるぜ」
暗殺者共が下卑た嘲笑をもらす。

 勝手に言っていろ! こっちが何で突然話し出したのかも分からない様じゃ素人だよ、お前達は。

 「御主人様………愛音は御主人様が最初の御主人様になって下さったことを感謝しています。できればもっとお仕えしたかったです………」
愛音が涙ながらに答えてくる。まだ気付いていないか。ロープはもうすぐ切れる!
「ああ。私も残念だ。もっと愛音と暮らしていたかったな。私はここで終わるようだ。愛音、新しい主人の元で元気に頑張ってくれ」
「えっ?」
「なに?」
私の言葉の明確な違和感に、愛音と暗殺者達が同時に気付いたようだ。

 だが………もうおそい!

 「うおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
気合い一閃。私は雄叫びを上げて暗殺者達に突進した。手近な画板を引ったくって一人の頭に叩き付ける。鈍い音がして画板が真っ二つに折れた。
「逃げろ! 愛音ぇ!」
私は力の限り叫んでいた。

危機 ~愛音~

 えっ? ええぇっ? ロープが切れてる、どうして? 御主人様があいつらと戦っている、愛音に逃げろって………
 でも………! 御主人様をおいて逃げられるわけないです!

 御主人様が画板で殴り倒した一人が頭を抱えて床にうずくまってる。

 あっ! もう一人が! 御主人様の後ろ!

 「御主人様! 危ない!」
体が勝手に動く。御主人様の体を押しのけて、何かを振り上げてるもう一人の男の体に向かって突進する。人間って必死になると、何も考えられなくなるんだ。

 気が付いたとき、愛音と男の体は窓ガラスを割って庭に向かって転落していたの。

 えへ、落っこちるってこういう感覚なんですね………御主人様………

反撃 ~貴也~

 窓ガラスを破って、愛音の体が消えていく。このアトリエは二階だ。打ち所が悪ければ………

 「愛音ぇ!」
私は必死に割れた窓に走った。だが、その瞬間に鈍い痛みを背中に受ける。
 画板で殴り倒した男が意識を取り戻したらしい。だが、脳震盪でも起こしたのだろう。足下がふらついている。当然だ。画板の角で殴ったのだから。だが、男は朦朧としている意識で私につかみかかってくる。

 「邪魔だああぁぁ!」
私は力の限りを右の拳に向け、男の左頬に叩き込んだ。足下もおぼつかない奴が避けられる訳がない。きれいに入った私の拳は男の体を壁に突き飛ばした。激突した男の頭が反動で壁にぶつかる。鈍い音がする。男はそのままずるずると床に崩れていった。

 そのまま暫く寝ていろ。

 そんなことより愛音は!

 その瞬間、何か大きな音が窓の外から聞こえてきた。背中を悪寒が駆け抜ける。
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
次に聞こえてきたのは、愛音の悲鳴だった。

反撃 ~愛音~

 痛ぁ~………

 二階から落ちた愛音の全身を痛みが駆け抜けて、意識を取り戻したの。アトリエから落ちた愛音は植え込みに助けられたみたい。体がいつも手入れしている植え込みに埋まってる。

 へへ。ありがとう。後で水あげるからね………って、忘れてた、あいつは………!

 慌てて見上げた愛音の目の前に、暗殺者は立っていた。何か、黒く光る物を愛音に………拳銃………!

 そんな! うそ!

 次に響いたのは、妙に現実離れした乾いた音。愛音はまるでテレビドラマを見るみたいに銃口の煙を見つめて………

 でも、そこまで………左の太股が燃えるように熱くなって………
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
愛音はのどが潰れるぐらいの大声で悲鳴を上げたの。でも足の熱いのは、やっぱりどうしようもなく熱くって………

 「手こずらせやがって! なぶり殺しにしてやるぜ! 次は右足だ!」
あいつが、凄く怖い笑みを浮かべて愛音の右の太股に拳銃を向ける。

 涙が溢れた。

 こんな死に方ってないよ………! 愛音が何したって言うの! 御主人様が何か悪いことしたって言うの! 助けて………! 誰か助けて………! 助けて御主人様………!

 「愛音に!」

 えっ………?

 上から声が聞こえてくる。あいつも上を見上げて、その瞬間………
「手を出すなああああああぁぁぁぁぁぁ!」
手に花瓶を持った御主人様が二階から飛び降りて、その花瓶で暗殺者の頭を殴ったの! ものすごい音がして花瓶が割れて、白目をむいた暗殺者が地面に倒れる。その上に御主人様が落ちてきて、暗殺者の体をクッションにするみたいに倒れ込んだの!

 なんて無茶! 御主人様はどこか体を打ったみたいで、なかなか立てないでいる。愛音も左足が凄く痛いけど………だけど御主人様の方が心配!

 「御主人様ぁ!」
愛音は地面を這いずって御主人様のところに急いだの。御主人様はまだ動けないでいるけど笑顔を向けて下さって………でも………でも………!
「大丈夫ですか! お怪我はありませんか!」
愛音が叫ぶと御主人様は笑って、
「私は大事無いよ。それより、愛音の方が重傷だろ?」
って、愛音の左足を指さして愛音の心配をして下さるの。
 でも愛音の事なんて関係ないの! 御主人様さえ無事なら! 愛音は頭を振って答えました。
「御主人様の身の安全の確保はメイドの義務です」
精一杯の強がり。御主人様には御心配をかけたくないの………

明日 ~愛音~

 「馬鹿っ!」
きゃっ!
 御主人様は突然お怒りになって声を張り上げられました。とっても怖いお顔をして………あぁ、あの西條に怒っていた時よりも怖い顔で………
 なのに、それなのに涙を浮かべて………愛音の胸が締め付けられる………
 御主人様の手が愛音の頬にそっと触れる。撫でるように、愛でるように、愛音の頬に触れる………暖かい………
「これ以上………」
御主人様が何かを言おうとしてる。震える声で。もう怒ってない。ううん、最初から怒ってなんかいなかった。ただ、心配してくれていただけ。

 御主人様の瞳を見る。

 あ………見えなくなっちゃう………目の前が歪んで………何かがこみ上げてきて………

 御主人様! 早く! 早く言って下さい! 愛音が泣いちゃう前に!

 「これ以上………大切な人を失う苦しみを………私に味あわせないでくれ………」
御主人様が愛音を抱きしめてくれる………優しく、強く………暖かい………
「はい………」
愛音は答えたの。そう、御主人様にこれ以上苦しい気持ちを味わってほしくない………だから愛音は………愛音は………
「愛音はいつも、御主人様のお側に………」

 御主人様の腕が痛かった………凄く強く抱きしめられて………だけど………きっと気持ちいいって………こういうことなんですね………

エピローグ ~貴也~

 それから十一ヶ月が経って………色々あったが契約期間の過ぎた愛音は会社へ帰っていった。何でも、社則の関係で契約更新してもそのまま愛音が居続けることはできないらしい。
 だが、心配はしていない。愛音は最後に、
「絶対帰ってきますから、新しいメイドは雇わないで下さい」
と言っていったからだ。一年間一緒に暮らしてきたから分かる。愛音は嘘を絶対につかない。

 そして三日後、再び扉はノックされた。扉を開けた私の胸に飛び込んで来たのは、愛音だった。一年前に来たときより、荷物が一回り大きくなっている。

 その愛音は、小さく舌を出してこう言った。
「辞表を出して来ちゃいました!」
思い立ったら一途と言うか何というか………まったく、憎たらしい演出をしてくれる。

 今も生活は続いている。この山奥の洋館に、主人とメイドの二人だけの生活。最初で最後のメイドと、最初で最後の御主人様とは愛音の言葉だ。

 奉仕の心が愛に取って代わるのは、愛音にとってはさして難しいことではなかったらしい。

 今の私は、愛の福音の奏でる心地よい旋律に身を委ね、かつての決心が揺らぐ思いをしている。