墜落日記 - 2009年6月8日の墜落
秋葉原の歩行者天国の復活は時期尚早
本日で秋葉原の無差別殺傷事件から一年を迎えた。
事件現場となった交差点には「どうか安らかに眠ってください」と書かれたメッセージカードが置かれ、花束や千羽鶴が供えられた。通勤客らが足を止め、手を合わせる姿も見られた。
とは共同通信からの引用だが、ただたまたま現場にいたという不幸な偶然だけで被害者となってしまった方々、ご遺族の方々のご心中は自分には想像も出来ないものであろうし、風化させてしまってはいけない事件である。
さて、あの痛ましい事件以来、秋葉原では日曜日の歩行者天国は中止され続けている。
昨今の不況も相まって歩行者天国の復活へ希望を託している商店街の姿もあるようだ。
しかし、ちょっと待て。
冷静に考えろ。
秋葉原の歩行者天国が無くなった直接のきっかけは確かに無差別殺傷事件だが、それ以前から極度の風紀の乱れから存続が危ぶまれていたはずだ。
破廉恥露出女とそれに群がるドブネズミの例は顕著だが、過度の路上パフォーマンスが公共良俗に反していなかったかというと疑問だ。
そもそも加速する風紀の乱れから万世橋警察署も歩行者天国の存続の可否を吟味していた筈で、決定的な問題が起こらない限りは融通を利かせてくれる警察も、決定的な事件が起こったから厳格に対応したに過ぎない。
もともと秋葉原の歩行者天国は廃止される方向にあった。
無差別殺傷事件とは問題の根っこが違うのである。
であるからして、無差別殺傷事件と秋葉原の歩行者天国の中止を紐付けて考えるのは些か以上に暴論であるのだ。
秋葉原の歩行者天国の復活をすべきか否かという問いに関して、自分は時期尚早だと考える。
と言うのは、秋葉原という街と訪れる人間の性質がさして変わっていないからだ。
秋葉原は時代と共に変容しているが、現在はオタクの街と化しており、電気街の様相は様変わりした。
電気街としての秋葉原に愛着のある人間は今の秋葉原を苦々しく思っているかもしれない。
街全体がオタク商売に傾倒しており、毎日がコミケ状態の様な、悪い意味で何でもあり、正常な感覚を持った人間から見れば出来の悪いアミューズメントパークの様な得体の知れない街と化している。
正常な感覚を持ち続けているオタクであれば秋葉原という街も分別の上にそれなりに愉しめようが、正常な感覚から逸脱したオタクにとっては自分達の感覚が正常であると誤認識する環境が構築されている危険な空間である。
そして秋葉原という街自体が正常な感覚を持ち続けているオタクと正常な感覚から逸脱したオタクを一緒くたにしてカモにしている節がある。
そうすると目立つのは当然ながら正常な感覚から逸脱した方のオタクであり、それがまた秋葉原の悪い意味での何でもありという印象を加速させ、そもそも秋葉原ともオタクとも関係ない正常な感覚から逸脱した人間を呼び込んでしまう。
ついでに言うと、石原が変に頑張っちゃったから元来秋葉原ともオタクとも関係なかった一般人がそれらに触れる機会が増えてしまって余計に質が悪い。
マスコミも面白がって無分別に報道し(そもそもマスコミに分別を求めること自体がお門違いだ)、やらんでもいい助長を繰り返す。
それらが負のスパイラルとなって構築されたのが無差別殺傷事件の直前の秋葉原の様相である。
そして現在もその負のスパイラルを産み出す原因は取り除かれていないように思える。
つまり秋葉原の歩行者天国を中止に追い込んだ本当の原因は解決されていないのだ。
秋葉原という街自体が正常な感覚から逸脱した人間の聖地とならないように自浄作用を発揮させない限り、歩行者天国を復活させても元の木阿弥である。
歩行者天国の復活は短期的に街に経済効果をもたらすかもしれないが、それは秋葉原という街が常軌を逸した街になることと引き替えに成り立つ諸刃の剣だ。
だから自分は秋葉原の歩行者天国の復活は時期尚早だと考える。
ま~現実問題として、オタク街から代替わりが出来そうにない秋葉原という街は遠からず崩壊するのではないかと思うのだけど、それはまた歩行者天国の復活とは別の問題なので今回は論じないこととしよう。
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